途中、カトリック神田教会聖堂、弓町本郷教会の前を通った。みな、歴史的建造物。

しかし、この辺りは大正12年の関東大震災で焼けはてた地域なので、再建されたものだった。
弓町本郷教会会堂 昭和2年 設計中村鎮

年末、高円寺の古本市で大正12年10月1日発行の「大正大震災大火災」を手にいれた。大日本雄弁会・講談社が、400頁近い総力をあげた報告書を、震災の27日後に印刷し、1か月後に発行していることに、まず驚いた。
口絵80頁、大震災記、大火災記、死灰の都をめぐる、地方の惨状、機敏なる当局の措置、目覚ましき各種機関の活動、鉄道の惨害と応急始末、汽車、大混雑の実況、通信交通その他機関の惨害と応急始末、経済界の大打撃と将来、鬼神も面を掩ふ悲話惨話、人情美の発露!美談佳話、秩父宮殿下の御仁慈、嘘のやうな事実!震災異聞、震災が生んだ新商売珍職業、訛伝・誤報・流言蜚語・地方さわぎ、焦土に立ちて、失った珍宝の話、感謝すべき世界各国の同情、復活する大東京。他に与謝野晶子の短歌「天変動く」や理学博士「地震の話」渋沢栄一、幸田露伴「羅災者に贈る言葉」と延々と続く。
災害調査、総括の迅速さが、復興の速さに連動しているように思われた。
「ところへドシーンと来た!」
「絵は落ちる、見物人は悲鳴をあげて逃げ叫ぶ中に、落ちつき払った百穂画伯は丁寧にこの二十四間の絵まきを持ちあげて元通りにかけてやった」
画伯は「『折角のものを破いては惜しいですからね』と涼しい顔」とある。
当の大観はどうかというと、「かろうじて焼け残った下谷茅町の横山大観画伯邸は下谷郵便局に占領されたが、大観画伯は大いに欣んで単衣一枚の尻端折姿で長靴をはき、これがまあ一代の巨匠かとは思はれぬ勇しい姿で避難民の救護に奮闘中」と記されている。
大御所の責任感あふれる目立った行動もいいが、百穂の咄嗟に行動に心惹かれるところがある。百穂は、短歌もものした。
猫の歌もある。
生垣をくぐりていゆく孕み猫 土に腹すりくぐりけるかも
ひそやかに吾がさ庭べに来て居りし 子猫はあはれ青草を食む
前の歌の「いゆく」は、古語の「い行く」で、後の歌の「さ庭」は、小さな庭であろう。

新年会で、手に取った「おみくじ箸」。中吉だったが、ここにも猫の絵が