聖堂の格狭間とカルカッタ博物館のつながり

今年の湯島聖堂初詣で発見したこと、その2。
 
イメージ 1
 
 湯島聖堂の大成殿に向かう門、杏壇門に、こんなデザインが施されていた。
 今まで、見逃していた。
 格狭間(こうざま)。上部が花頭曲線の図案。平等院鳳凰堂、平泉金色堂須弥壇でおなじみのように、もともとは、須弥壇や仏壇の側面の羽目板の装飾だった。
 
イメージ 2
 格狭間の中央下の、花のような文様は別で、こちらは、唐の宝相華文や葡萄唐草文などの一部によく登場する文様だ。格狭間とこの文様が合体したセットは、高野山金剛峰寺不動堂など、鎌倉時代に登場する。伊東のこのデザインは、ごく普通のもので、独創性はない。
 
 しかし伊東忠太はなぜ、これを門のデザインに取り入れたのだろうか。元禄4年の湯島聖堂を描いた図を見て気づいたのは、聖堂の門に、格狭間らしいものが描かれていることだ。
 
イメージ 3
  アップすると、
 
イメージ 4
 
たしかに、扉の上部に格狭間をあしらっている。
 伊東は、寛政の建築ばかりでなく、元禄の古い聖堂の一部も参考にして再建したのではなかったか。
 
イメージ 5     イメージ 6
 
 また、花のような文様については、伊東自身が「文様 飛鳥文様の起源について」で触れていた。上左図は、伊東が1902年から1905年まで、中国・インド・エジプト、シリア、パレスチナ、トルコ・欧州と世界旅行した時、インド・カルカッタ博物館で発見してスケッチした「ササン式」の文様だ。飛鳥文化の源流が、中東ペルシャにもつながることを示す証拠として、伊東が追いかけたものだった。
 
 1の文様と、杏壇門の文様=上右=は、ほぼ同じものである。
  一見平凡そうな杏壇門の格狭間ひとつとっても、伊東忠太が聖堂の歴史を紐解いたものであり、世界旅行した時に発見した思い出深く、意味のあるデザインであったと、いうのが結論だ。
 
 これで、正月気分はおしまい。また、多忙な日々がやってくる。