きっかけは龍蔵蔵書

 仕事場の近所、神保町の古本店に立ち寄って、2冊ほど書籍を購入した際、
 「それは、鹿島龍蔵さんの蔵書だったんですよ」とご主人が話しかけてきた。
 話によると、書庫の蔵ごと手に入れたらしい。平積みしてある「工藝」など、店内には同氏の蔵書がたくさん置かれていた。
 「あの鹿島ケンセツの?」と訊ねると、文人としての活動を含め、詳しく説明が始まった。興味深い話だった。「ぜひ、もっとあの方のことを知ってほしい」といわれた。
 
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 購入した川勝政太郎「京都古蹟行脚」(臼井書房)には、蔵書印が確かに捺されていた。判読しにくく、ご主人から言われなければ、誰の蔵書が分からなかったと思う。
 
 そんなこともあって、武村雅之「天災日記 鹿島龍蔵と関東大震災」(鹿島出版会)を取り寄せた。龍蔵氏(1880-1954)の日記が掲載されていた。田端文士村に住んでいた同氏は、震災の翌日、自宅から根津、池之端、湯島、神田と被災地を巡って、鹿島本店(役員をしていた)のあった木挽町まで、息子と出かけた。壊れた永代橋、瓦礫の銀座、車輪だけ焼け残った列車などの様子が、生々しく日記に記されている。5日には芝公園方面まで歩いている。文人であり、グラスゴー大で造船を学んだ実業家ならではの冷静な観察眼が際立っている。
 
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 文士村では、パトロン的な存在で、作家の芥川龍之介室生犀星、彫金の香取秀真、画家の小杉未醒森田恒友らと交流し、面倒も見ていた。
 震災当日は、上野で梅原龍三郎院展を見て、休憩所で休んでいるとき、激震に遭遇したのだった。
 (前にも書いたように画家の平福百穂は、展示会場で、横山大観の「生々流転」が揺れで落ちるのを支えていたのだった。院展初日なので、多くの画家が詰めかけていたのだ)
 
 大正時代の学術月刊誌「歴史地理」の猫の挿絵や表紙の謎の作者として以前に何度も触れた、画家の森田恒友と、ここでまたつながるとは思わなかった。
 
 本は著者、装丁者、挿絵画家、出版社、印刷所などのことばかりでなく、前の持ち主の探索もまた、興味深いことだとつくづく思ったのだった。
 
 (続く)