長崎でまた閑右衛門画伯のこと

 長崎で仕事を手伝った。丸山町界隈の坂道を歩きながら、朝井閑右衛門のことをまた考えた。

 
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 文部省が日本美術界の統括を企て、帝展を改組した昭和10年当時、朝井は帝展に反旗を翻した「第2部会」の若い画家たちのグループに寄り添っていた。10年か11年初めに開かれた彼らの決起の集まりに参加した朝井は、その様子を「現代美術」(11年5月号)に「饗宴記録」と題して発表した。(喜夛孝臣「韜晦する閑右衛門」、朝井閑右衛門展カタログ)
 
 集まりには、新制作派を結成した小磯良平猪熊弦一郎らが参加していたことから、メンバーの三田康、脇田和鈴木誠らも出席したと思われる。この頃、光風会の朝井に新制作派の入会の誘いがあったという。
 ところがー。
 半年後の昭和11年10月、朝井は文部省主催の「文展」に「丘の上」を出品する。この作品は文部大臣賞を受賞し朝井は一躍脚光を浴びた。
 
 どうしても、気になる点がある。「丘の上」の500号もの大キャンバスを朝井はどう調達したのか。
 朝井閑右衛門展カタログに掲載された原田光氏の「戦中の朝井閑右衛門、そこにしぼって」は、入手ルートを推測するものだった。当時、500号の規格外の大キャンバスは、フランスのロベール・ブランシェ社から取り寄せるほかなかった。
 ちょうどその年、明治神宮外苑の「聖徳記念絵画館」では同社から取り寄せた大キャンバスで明治天皇の記録画を完成させていた。朝井はツテでその大キャンバスを回してもらったのではないか、と。
 文部省の関与ということになる。文部省と対立した三田ら新制作派と正反対の道をこの時朝井が選んだように思える。
 盧溝橋事件が起き、日中戦争が本格化する中で、翌昭和12年の官展「新文展」に朝井は戦争画を出品する。今は残っていないが「通州の救援」。マリア像のような日本人母子と日本軍の救援を待つ負傷した日本人を描いている。
「丘の上」のような大キャンバスだったという。
 
 時代は朝井が選んだ方に動いてゆく。
 昭和13年朝井は中支那派遣軍から委嘱を受け、第二次上海事変戦争画を描きに行く。同行した画家の中に新制作派の小磯、脇田もいた。朝井は「於巴洋丸」と題して船内をスケッチ。小磯ら画家の名前も記した。4年後の昭和17年、三田も海軍報道班員として南洋に派遣される。
 
(続く)