上代日向研究所について(4)

 その時、考古学者の瀬之口伝九郎氏は、知らされていたのだろうか。
 陸軍が2ヶ月前の昭和17年4月、古墳群が広がる宮崎市の西北、現・国富町の木脇地区に、飛行場建設を決定し、やがて緊急の発掘調査を依頼されることになるのを。
 
 紀元二千六百年にあたる昭和15年10月、陸軍は少年飛行兵を育成する操縦教育施設を全国で3箇所設立した。宇都宮陸軍飛行学校、熊谷陸軍飛行学校、そして九州・福岡の太刀洗陸軍飛行学校。
 太刀洗飛行学校には、全国から2000名ほど少年が集められた。彼らに基本操縦教育を施すため、分校が必要になり知覧、熊本、玉名とともにこの古墳群が広がる宮崎・木脇の地が選ばれた。1600㍍×600㍍の滑走路、兵舎が建てられる予定だった。
 
 陸軍から、上代日向研究所に正式に古墳群の発掘調査の依頼が届いた。瀬之口氏は、調査後の昭和19年、木脇の六野原古墳群遺跡調査報告書でこう記している。
 
東諸県郡八代村六野原ニ於ケル陸軍某施設ニ当リ発掘改葬ヲ要スル所カラ」「其ノ調査ヲナシタ」。飛行場は機密事項だったのだろう、「陸軍某施設」としている。
 
 実は、瀬之口氏は昭和15年にも、新田原陸軍飛行場が建設のため、古墳群の事前調査を依頼されていた。この時、飛行場の敷地にかかったのは、石船古墳群の4基だった。同氏らは、調査の上、大師山公園に4基の古墳を「縮小移転」する作業を行った。
 
 今回の木脇飛行場は、規模が違った。40基近い古墳が対象になった。しかも陸軍は、建設を急いでいた。一般には公表されなかったが、昭和17年6月にミッドウエー海戦で敗北し、戦局が悪化していたためだ。
 
 瀬之口氏は、報告書で思いを伝えている。上代日向研究所の設立は、県下の遺跡の保護が大きな目的のひとつであり、古墳保存協会も設立された。古墳群の発掘など思いもよらなかった、と。
 
 「本県ニ於テハ古墳ヲ上代遺蹟トシテ其ノ保存ヲ計ルコトトナリ、既ニ古墳保存協会ノ設立ヲ見テ居ル次第デ、古墳ノ発掘ナド思ヒモ寄ラヌ事乍ラ公益上已ムヲ得ザル施設ニ対シテハ、ナサネバナラヌ事トシテ宮内省及ビ文部省ノ許可ヲ得テ調査ヲナス事ニナッタノデアル
 
 宮内省及び文部省の許可を得て、と書かれているのは、陸軍の決定に対して、かすかな変更の希望を抱いて、両省に意見を求めたからか、と想像する。回答は「ナサネバナラヌ事」の追認になったようだ。
 
イメージ 2 大正時代に新田原の石船塚の調査をした梅原末治博士の論文(歴史地理28巻3号)
 
 瀬之口氏らは、発掘の指導を京都帝大の考古学者・梅原末治博士に仰いだ。以前にも古墳の発掘調査に協力してもらったからだ。嘱託として内諾を得たが、9月1日までにと急ぐ陸軍のスケジュールが折りあわなかった。梅原氏の年譜を見ると、朝鮮半島、中国大陸の考古研究の著書の上梓などで忙しかったようだ。
 翌18年12月になって、やっと出土遺物の鑑定のために宮崎を訪れた。
 
 昭和17年9月23日、大規模発掘は瀬之口氏ら研究所のスタッフが自力で臨むことになった。特別委員の石川恒太郎氏、研究所書記の樋渡正男氏、県書記の溝辺寛一氏が困難な発掘に挑んだ。発掘の人手は、陸軍が用意した。
 
軍部工事上ノ時日急迫セルガ為已ムヲ得ズ、県ニ於テ之ヲナス事ニナツタノハ遺憾ノ次第デアツタ
 
 37の古墳を9ヶ月で調査した。発掘開始の前日、知事や軍部、地元村長、学校長ら40余人が10号墳の前に参集し、北俣神社の社司によって「移転奉告祭」が執り行われた。
 報告書では「改葬」という表現をしている。「縮小移転」の石船古墳群のときのように、丁寧な移転作業ができなかったことを示している。台地の上に、組合式石棺を埋め、遺骨と墓内の土を収め、後日碑を作り、改葬奉告祭を行った。
 前方後円墳、円墳など10基のほか、南九州独特の「地下式古墳」27基を発掘調査し、考古学的に大きな成果を上げ、18年6月30日に終了した。 
 
 発掘調査報告での瀬之口氏の物言いをあらためてかみ締めると、
 
 1)「思ヒモ寄ラヌ」陸軍からの指示で、古墳群を保存どころか、結局破壊される発掘調査をしなければならなかった、
 2)発掘を急かされ、古墳発掘の指導者も得られないまま、「遺憾」ながら自力で発掘した、
 と、苦々しい思いを覗かせているように思える。
 
 飛行場は、昭和18年11月に完成し、1年余り、特攻隊員を含む少年兵の飛行訓練を行った後、同20年3月に米爆撃機による初空襲を受け、5月に撤収を決定、鳥取県湖山飛行場に移動することになった。
 
 今は飛行場も、壊された古墳群も跡形ないが、瀬之口氏らの活動は留めておく必要があると思う。
 
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 上代日向研究所の蔵書だった「東洋考古学」(駒井和愛、江上波夫、後藤守一、平凡社、1940年)