練馬区立美術館で開催中の「朝井閑右衛門展 空想の饗宴」を見にいった。先々週。朝井閑右衛門(1901-1983)に関心を持ったのは、仮面と幻想の画家アンソールとの類似を指摘した文章を読んでからだ。
鎌倉八幡宮の祭の連作などを見るにつけて、合点する処が多かった。
2人は、昭和11年(1936)、交錯していたのだ。同年は、美術界の波乱の年だった。前年、強引に官展の「帝展」を改組した松田文相に美術界が反発し、三田ら東京美術学校の若きエリート画家7人が帝展を飛び出し、在野の新制作派協会を設立した年だ。しかし、反発した他の多くの画家たちは、文部省が慌てて帝展運営を修正したため、官展支持に戻って行った。
三田らは振り上げた拳を下ろさずに下野し、新制作派展を開催した。
帝展は、昭和11年10月 「文部省美術展覧会」の名称で府美術館で開催された。官展支持派は参加し、光風会の朝井も出品した。3.3メートルもの、500号の大作「丘の上」で、文部大臣賞を受賞する。
一等賞だった。
庭と思しき野外で一角獣と貴婦人が踊っている。左手で楽師が演奏し、後ろで女性が踊ったり、音楽に聴き入っている。アルルカンのような姿で一角獣の被り物をしている異形の者が画面中央に立っている。この作品が一等賞を取った文展から1か月後、同じ上野の日本美術協会陳列館で、「第一回新制作派展」が開催された。
意欲作が出品されたが、不思議なのは、新制作派の画家たちが同じように、楽師が登場する作品を出品していることだ。
なかでも、三田康は、「緑陰」「草上」を出品、とくに、左手に3人楽師が居る「緑陰」は、朝井の「丘の上」と似ている。一角獣は居ないが、貴婦人が中央で眠っている。
これも、300号、2メートル90幅の大作だった。
作品は、所在不明のため色彩が分からないのが残念だが、興味深いことに三田は、締め切りぎりぎりまで手を入れたと言っている。
「三田の絵とは思えなかった」(加山四郎)、「野党意識が、これまで表現様式を改めるものとは想像がつかなかった」(福沢一郎)と三田の作風の変化に当時の批評家、画家は驚いている。(参考・折井貴恵氏「第1回新制作派展について」)
三田は、1か月前の文展の朝井の大作に対抗意識を燃やし、似た画題で、大きさでも引けを取らない「緑陰」を仕上げたのではないか。
三田36歳。朝井35歳だった。
(続く)