恒友、泊雲の松茸狩


 細が入院する病院に通いながら、高円寺の古本屋で見つけた森田恒友の「画生活より」を読んだ。恒友は、今まで幾度か触れてきた大正、昭和初期の画家で版画家だ。
 パリ留学したのはいいが、第一次大戦下のパリに到着。緊迫する戦況の中、心酔するセザンヌの郷里を訪問して、決定的な影響を受けたことなどを書いている。
「世の中からはなれて、此の南郷に、固く自分を守られた先生が、どんなに一人勉強にふけったかを僕はつくづく想ふのです。印象派の人達を友達に有って居ながら、凡ての画の上からも、其の友達等からもはなれて、全くセザンヌは芸術に没頭したことを思はねばなりません」
と、セザンヌを先生と呼んでいる。

 文章を読むと、恒友は、セザンヌに対して画風より、田園に帰って、自然に「正対」する「画生活」を送ったことに共感しているかのようだ。
 帰国後、恒友は牛久に住む水墨画の画伯、小川芋銭にひかれ交友する。セザンヌと芋銭に、画風の共通項はないが、2人の田園暮らしの、自然に向かう画家の精神に共鳴しているように見える。西洋画を学んだ恒友の絵は、芋銭に近づいてゆく。

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 恒友の「常総の夏」のスケッチから(大正9年)

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  小川芋銭の扉絵

 同書には、入院日記を収録している。
 恒友は、癌を患い、昭和7年12月3日に、千葉医大第2外科(千葉大医学部)に入院した。昭和8年元旦付から2月6日付分までが掲載されている。
  1月18日、「突然芋銭泊雲の二氏来訪あり。暫く仰臥のまま話せしが、苦痛去りたる為め起きて話す」と、芋銭が丹波俳人・西山泊雲ともに見舞いにきたことが記されていた。
  西山泊雲は、いままで何度も書いてきた敬愛する俳人。句誌「ホトトギス」の表紙を描いた芋銭と親しくなり、それぞれの子供たち2人がW結婚するほど、仲のいい両家族だ。
 
 泊雲は翌日も単身見舞いに現れた。
「一月十九日 曇 寒し 四時頃西山氏再び来訪、嬉しく少時話。氏は今夜行にて帰村すとて十分位で帰らる。芋銭氏より見舞金、百穂氏より画本も託されて持参さる」
ホトトギス」つながりの日本画家、平福百穂からの画本も届けている。
 泊雲は泊まっていた芋銭の住む牛久から、千葉の病院に寄って、東京から夜行で京都に向かい、山陰線、福知山線丹波竹田に帰ったと思われる。
 1週間後の1月27日の日記には「小川芋銭氏、西山泊雲氏より昆布茶を贈らる」と、また芋銭と泊雲の名が登場する。
 恒友は、元気だった昭和6年10月、丹波竹田の泊雲の実家を単身訪問していた。泊雲の所有する松茸山に行き、4貫目(15㌔㌘)もの茸を狩り、泊雲宅(西山酒造)2階で焼いたり、牛肉と一緒に煮て食べたと、楽しかった思い出を書き残している。
  恒友もまた、泊雲と深くつながっていたのだった。
 田園の画家、俳人として、大正から昭和初めの3人は、精神的に結ばれていたようだ。
 牛久の芋銭-丹波の泊雲。
 たとえば、「睡蓮に水玉走る夕立かな」(大正8年)
 泊雲の句も、画家たちの中に置いて捉えなおすと、新たな魅力が見えてきそうだ。
 
芋銭 1868-1938
泊雲 1877-1944
恒友 1881-1933 


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細は無事退院。猫に元気が戻った。