細が入院する病院に通いながら、高円寺の古本屋で見つけた森田恒友の「画生活より」を読んだ。恒友は、今まで幾度か触れてきた大正、昭和初期の画家で版画家だ。
「世の中からはなれて、此の南郷に、固く自分を守られた先生が、どんなに一人勉強にふけったかを僕はつくづく想ふのです。印象派の人達を友達に有って居ながら、凡ての画の上からも、其の友達等からもはなれて、全くセザンヌは芸術に没頭したことを思はねばなりません」
と、セザンヌを先生と呼んでいる。
文章を読むと、恒友は、セザンヌに対して画風より、田園に帰って、自然に「正対」する「画生活」を送ったことに共感しているかのようだ。
帰国後、恒友は牛久に住む水墨画の画伯、小川芋銭にひかれ交友する。セザンヌと芋銭に画風の共通項はないが、2人の田園暮らしの、自然に向かう画家の精神に共鳴しているように見える。西洋画を学んだ恒友の絵は、芋銭に近づいてゆく。
恒友の「常総の夏」のスケッチから(大正9年)
小川芋銭の扉絵
同書には、入院日記を収録している。
泊雲は翌日も単身見舞いに現れた。
「一月十九日 曇 寒し 四時頃西山氏再び来訪、嬉しく少時話。氏は今夜行にて帰村すとて十分位で帰らる。芋銭氏より見舞金、百穂氏より画本も託されて持参さる」
恒友は、元気だった昭和6年10月、丹波竹田の泊雲の実家を単身訪問していた。泊雲の所有する松茸山に行き、4貫目(15㌔㌘)もの茸を狩り、泊雲宅(西山酒造)2階で焼いたり、牛肉と一緒に煮て食べたと、楽しかった思い出を書き残している。
恒友もまた、泊雲と深くつながっていたのだった。
田園の画家、俳人として、大正から昭和初めの3人は、精神的に結ばれていたようだ。
牛久の芋銭-丹波の泊雲。
たとえば、「睡蓮に水玉走る夕立かな」(大正8年)
泊雲の句も、画家たちの中に置いて捉えなおすと、新たな魅力が見えてきそうだ。
芋銭 1868-1938
泊雲 1877-1944
恒友 1881-1933
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細は無事退院。猫に元気が戻った。