英国のスチュワート氏まで恵方巻

 先週の水曜日の夜、スチュワート先生に会うと、節分に北北西を向いて、恵方巻を食べたのだが、どうして恵方は毎年変わるのか、と聞かれた。

「ひょっとして、コンビニで買ったんですか。商売に乗せられてますね」とこたえると、
「いや、自宅で○○子と、海苔を巻いて作ったのです」という。日本人の奥さんと協力したらしい。
「具は卵と胡瓜と鮭ね」
恵方のことは、少し分かりますが、恵方巻は知らないです」とこたえた。
 
 陰陽道といって、物忌み、方違えといった禁忌(タブー)が日常生活に影響を与えてきた。その中で重要な役目をする、方位神というのが居て、毎年方位を移動している。吉神の「歳徳(としとく)神」がその年に、居る方向が「恵方」と決まる。今年は北北西。
 
 正月行事で、その恵方に神棚(歳徳棚)を作り、注連縄を渡し、供え物をしてきた。伝統的には歳徳神は、節分でなく正月に祈りを捧げる神なのだ。
 
 江戸時代の井原西鶴作の浮世草子西鶴織留」に、「歳徳棚を買ひければ」という文例がある。正月を前にして、歳徳神を祀る棚を買っていた、上方の商人の生活が描かれている。歳徳は「正月」という意味を持つようになり、俳諧の季語にもなった。
 
 丹波を代表する大正期の俳人、西山泊雲にこんな句がある。
 
 「歳徳や土かはらけの御燈明」(大正12年
 
 正月に新しいかわらけの油皿を用いて燈明をして、歳の神に祈った丹波の暮らしが伝わってくる。おそらく、丹波でも大正末までは、恵方に歳徳棚が作られたのだろう。
 新品の素朴な使い捨ての土かわらけが使われていたのだ。
 
 明治5年に「改暦詔書」が出、日本で太陽暦が採用になったとき、旧暦の正月は2月の節分ごろにあたったため、正月と節分が混交してしまったようだ。恵方が正月の儀式から、節分のものにいつの間にか移り、しかも海苔巻きを食べる風習まで加わった。
 
 細によると、「テレビでやっていたけれど、花街で始まった習慣とかいっていたようよ」
 テレビは当てにならない(細の記憶も)のだけれど、近年に始まったことは確かだろう。
 
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 先週丹波に仕事で出かけた。雪のため、泊雲の生家(西山酒造)のある丹波竹田へは回れなかったが、帰途山陰線を途中下車して、京都・嵯峨野の、泊雲と弟の泊月の句碑がある寺に寄った。
 
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 住職と硝子戸から庭を眺め、嵯峨野に増えた中国人観光客のこと、寺にゆかりのある西山泊雲、野村泊月の話などした。冬も美しい苔の庭。大きな句碑にも、青々とした苔が貼り付いて、「名月や葎の中の水たまり」(大正10年)の秋の句も、しかとは読めそうになかった。