先に記した、京都・嵯峨野の寺には、芭蕉の研究家の墓がある。
飯野哲二東北大学名誉教授。
昭和30年代に、ふら、と女性とともに、嵯峨野を訪ねてきて、この寺の離れで暮らし出す。女性もまた、仙台からやってきた、若生小夜。随分と年下で、品のある美しい人だったという。
このとき、飯野哲二は60代半ば或いは、後半だった。二人して、芭蕉の足跡を辿り、此処に、住処を定めたようだ。近くに落柿舎がある。
昭和37年、小夜は、落柿舎に芭蕉の句碑を建立する。「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」という句だ。今も勿論残っている。碑の建立は、随分費用がかかっただろうと想像する。小夜の実家は、素封家であったのか。二人は、さらに芭蕉の句碑を作る。昭和39年、芭蕉の故郷、伊賀上野の愛染院に、「家はみな杖にしら髪の墓参り」の碑を建てる。
碑には「蕉跡探訪の記念としてこの碑を翁の霊に捧ぐ 昭和三十九年五月 天津二、小夜」
と連名で自分たちの名を彫っている。哲二は、「天津二」(てつじ)の筆名を用いた。
この愛染院に、昭和46年に、飯野哲二が再度碑を建てた。
「数ならぬ身となおもいそ玉祭り」
芭蕉が愛した、寿貞尼の追善供養として、書は小夜が担当し、碑にも「小夜書」と残した。
その後のことが、よく分からない。二人の出会いが分からないように。財も底をついた、らしい。
寺には、飯野哲二の墓しかない。小夜の墓は、仙台にあるらしい。
二人は、お互い、どういう最期を迎えたのか、と思う。芭蕉もまた、寿貞尼でなく、武将、木曽義仲に寄り添うように、義仲寺に骨を埋めたことを考えれば、寺に、哲二の墓しかないのも、また、芭蕉研究家らしくていいのか。
嵯峨野には、昭和という時代にもまた、男女の物語が確実にあったのだ。
(続く)