「欲得離れ」た日比野士朗の遺作

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 作家・日比野士朗の遺作「芭蕉再発見」(新典社)を、苦心しながら読んでみた。専門的な芭蕉研究だった。しかも、芭蕉の書簡の読み解き、弟子や後世の芭蕉伝記の比較検討と、基礎的な探求を続けていた。

 まえがきで「この考証を始めてからまる八年半になる。その間、安屋冬李の「芭蕉略伝」の全内容を知るために、名古屋に滞在中日帰りで三重県上野市を訪ねたのは唯一の例外として、国会図書館に数回、東京都公文館に一、二回通ったほかは、終日机の前に坐りつづけるような生活をつづけた」と記している。

 

 そもそもは、芭蕉を主人公にした小説を思い立ったのがきっかけだったらしい。

芭蕉の伝記小説を書きたいと思い立ったのはずいぶん前のことで、めぼしい芭蕉研究書もかなり多く読みあさってきたが、いかんせん芭蕉の前半生を思い描くことはできなかった」。

 それが、芭蕉と同時代の伊賀在住の俳人服部土芳の遺稿に出会い、後世広まった芭蕉伝記は信用ならないことに気づいた。「土芳の遺稿のおかげで、つい思いがけない深みにおぼれ込んだ」という。

 

 謎の多い芭蕉の実像を、ジグゾーパズルをはめ込むようにして、組み立てている。生地伊賀上野での青春時代。藤堂家への仕官と、内妻寿貞尼の出会い、京都への遊学。「寿貞との恋愛を発端に、主家を退身して京都に遊学し、ついに俳諧師を志して江戸に出るまでの経歴には、若い芭蕉の一貫した生命がある」と記している。

 

 芭蕉は、江戸・深川で単身で暮らす前、日本橋裏店で寿貞、桃印、次郎兵衛と同居していた。この人間関係が複雑で謎めいているのだが、日比野は検証し、同居人の桃印は寿貞の姉の子供であり、その妻まさ(芭蕉と寿貞の間に若くしてできた長女)がいたとし、当時2歳だった次郎兵衛は、桃印の子でなく、芭蕉と寿貞の子供だったとの結論を導き出していた。

 

「父、日比野士朗は、本論考を脱稿後、健康を害し、昭和四十八年十一月末以来、病臥の身となり、五十年九月十日永眠いたしました」と同書で子息の日比野節氏が記している。知人たちの協力を得て、昭和53年になってやっとこの遺作が日の目を見たのだった。

 

 日比野士朗はまえがきで「新進の俳文学者の協同研究が望ましく思われた一時期もあったが、結局は私のような男が、欲得離れて一人でこつこつ打ち込むより道がないこともわかった」「(芭蕉の)伝記を書くという念願が果たせなくても、この仕事は新進の芭蕉研究家に何かしら役に立つかもしれないと考えている」としている。

 芭蕉研究の現在の最先端のレベルはよく知らないが、同氏が最後に情熱をふり絞った著作は、俳聖に祀り上げられた芭蕉の、生身の生涯が十分伝わる内容と思う。芭蕉がただ一人愛した寿貞との関係も、この解釈であると納得できることが多かった。

 

 昭和21年発行の「東北文学」を手にしたおかげで、急ぎ足ながら日比野士朗の芭蕉解釈まで行きついた。同じころ、東北で芭蕉を研究し、落柿舎の近く京都嵯峨野で生涯を終えた飯野哲二氏の芭蕉研究の最終到達点についても、日比野氏の説と比較しながら、調べないとならないようだ。