嵯峨野の寺には、動物が掘った出来立ての穴があった。
住職によると、小倉山から猪が下りて来て、境内でミミズを食べたり、ユリネを掘り出して食べて、また戻って行くのだという。
ここまで、猪が来るんですかあ。正直僕は驚いた。
トロッコ鉄道の駅の傍、観光客の多いところなのに、深更か、未明にこっそりやってくるのだろう。
落柿舎に百歩足らずの鹿火屋かな
落柿舎の十一世庵主の工藤芝蘭子にこんな句があるのを、戻ってから知った。
猪や鹿が畠や田を荒らさないように、火を焚き、銅鑼を鳴らす番小屋。嵯峨野にも、鹿火屋=かびや、が少し前まで、あったのだ。
鹿も出たのだろうと、思う。
この芝蘭子の後、若生小夜が落柿舎の十二世庵主となる。
去来の「落柿舎ノ記」に
小夜と句碑を落柿舎に作った芭蕉研究家の飯野哲二も次のような説だ。
真っ向対立したのだ。
ややこしくしているのは、下嵯峨車折神社の傍らにも、弘化三年落柿舎と称し、第5世庵主が住んだことだ(頴原退蔵「芭蕉・去来」)。旧跡を探って、去来没後の江戸時代に、すでに、2つの「落柿舎」が別の地に建てられていたわけだ。
戦後、落柿舎を巡って、奇妙な事件も起きた。「工藤芝蘭子」という本によると、庵主の芝蘭子が北陸旅行で留守中に、何者かによって、落柿舎を閉鎖され、一時芝蘭子が入れないようにされたという。落柿舎の主導権争いとでもいえばいいのか。
猪が跋扈するように、嵯峨野にも、騒がしかった時期があったのだ。対立する説の狭間で、庵主の若生小夜は、どう立場を貫いたのか。
嵯峨野の鹿火屋守は、だれだったのだろう。小夜か、あるいは、哲二か。
淋しさに又銅羅うつや鹿火屋守
という原石鼎の、句を思い出した。
払暁の嵯峨野・常寂光寺