昭和21年「東北文学」と「第二芸術論」

 神保町の古書店から買い込んだ雑誌類が読みきれない。史学の雑誌、民俗学の雑誌、俳句誌、総合誌と混ざっているので、思考があっちこっちしている。

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 思いがけない発見は「東北文学」の昭和21年2月発行の第2号だった。著名な文学者が多数東北に疎開していることもあり、敗戦翌年の誌面は活気があった。発行元は、仙台に本社のある地方紙河北新報だった。

 中で目を引かれたのは、当時東北大で助教授をしていたフランス文学者の桑原武夫が、作家舟橋聖一と、河北新報出身の戦争作家日比野士朗を相手に、「古典的文学」の批判を激しく繰り広げていたことだった。(鼎談「新文学の摸索」)

 

 この年の「世界」12月号で、桑原武夫は「第二芸術論・現代俳句について」を発表し、俳句は芸術ではなく、「同好者だけが特殊世界をつくり、其の中で楽しむ芸事」にすぎないと、俳壇を徹底批判した。「日本の芸術が軽視されてきたのは俳句のごとき誰にも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大きな理由である」とまで言いきり、虚子ら10人の俳人の句と無名の5人の俳句をランダムに列挙し、どれも同じで区別がつかないだろうと挑発した。

 

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 「東北文学」2月号は、「第二芸術論」の前段のような鼎談だった。桑原よりも舟橋がもっと気負っていた。「終戦によって特にこの際、文芸運動といふものの本質、その在り方が何か今までと違ったものでなければならないわけだが」「清少納言がゐる、松尾芭蕉がゐる、といふことで日本の文化が世界の水準に出るといふやうに考へるんでは、あへなくも敗退した軍国日本と同じに文化でも負けると思ふ」

 

 桑原は「今度の終戦を契機にして政治的にも、文学一般にも、マツクアーサー司令官から押しつけられたといふ意味ではなしに、こっちからも進んでデモクラシーの文学は近代文学だからその点で今舟橋君が言ったやうに芭蕉清少納言に匹敵する偉大な作家が出ることは切望に堪へないけれども、それと同じ傾向、同じ在り方で作らうといふのは既に時代錯誤ではないか」と同調。「若い人は芭蕉すら忘れて」「風流といふことも捨てて西洋流の近代精神、散文といふもの」を学びなさい、としている。

 桑原も舟橋も、時代の子だったのだ。マッカーサー支配下の新時代に、俳句は生贄にされようとしたのだった。

 

 桑原は2年後の48年、京大へ移り人文科学研究所教授、所長として梅棹忠夫梅原猛鶴見俊輔らを育て、影響力を持った。舟橋は、2年後の48年日本文芸協会理事長となり、「雪夫人絵図」など大衆小説へ転身しながら著作権問題に取り組み、69年には、敗戦直後に批判していたはずの大相撲の横審委員長におさまっている。

 

 2月号には、飯田蛇笏の句が5句掲載されていた。その中の「終戦の夜のあけしらむ天の川」が、桑原が第二芸術論で掲げ、槍玉に挙げた15句の中に入っている。吟味したのでなく、お手軽な引用。蛇笏が気の毒だ。

 

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 晩年に嵯峨野に住み、生涯芭蕉を追いかけた飯野哲二の名も、この2月号で発見した。宮城高女の教授をしていたので、桑原と接点があったのだ。45年12月「東北文芸協会」2回例会で、桑原は「フランス文学の特色」を、飯野は「明治大正文学の展望と特色」を講演していた。

 

 鼎談に加わった日比野は、やがて小説家をやめてしまったが、78年には「芭蕉再発見 人間芭蕉の人生」を上梓した。芭蕉を追い続けた飯野とともに、当時桑原、舟橋の発言に対する意地もあってか、芭蕉を追い続けたようだ。