修学院離宮と東福門院(2)

 上の茶屋の大刈込については、近藤富枝が小説「東福門院和子 江戸の花女御」(2000年)で丁寧に描いていた。

 万治三年(1660)五月十二日、落飾し法皇となった後水尾院と東福門院修学院離宮に始めて御幸する最後のくだりだ。

所司代牧野親成が馬で前駆し、輿をおよそ五十六丁連ね、公家もお供につく。女院は括り袴を新調された」。

 御幸にはいつも徳川側の監視役で京都所司代が同行したこと、また修学院離宮の庭園は法皇が最後の情熱で、自ら設計監督したと近藤は解釈していた。法皇63歳、52歳になっていた女院は、袴のすそ口にひもを通し、括りすぼめたスポーティないでたちで臨んだと想像している。

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「下の茶屋寿月観に一休みするのももどかしく、女院はおひろいで上茶屋御成門を通り、ジグザグの急な石段を行く。両側から大刈込の高い壁がせまる、緑の階段である。やっとのぼりつめると突然大きく視界が開け、浴龍池の満々とした水面と、池にうかぶ島、遠く山々が連なり雄大な景観が目にとびこんでくる。/歓息があちこちでもれる」

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 女院離宮の拠点、下の茶屋の寿月観に寄って、すぐに徒歩であぜ道を登っていき、さらに石段を進んだ。大刈込の高い壁に挟まれた道は、足元とその先しか見えない。登り詰めたところで、パッと視界が広がる驚きを記している。

 大刈込の寄せ植の種類までに詳しく調べて書いてあった。

「大刈込は池を造るときに盛りあげた堤の石垣に「寄せ植」をしたので、ヒノキ、ツツジ、スギ、ツバキ、アセビヒサカキ、カナメ、カシ、モミジなど無造作に植えこみ、それを刈り込んだものである」

 大刈込を越えたところで、視界が広がる様は、徒歩でないと味わえない。

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「御所を出発のとき、『この度は上の茶屋へは輿で参ってはならぬ』と法皇が念を押されたのは大刈込の道路をわけもわからずただ汗を流し疲れながら進むことを経ずに突然開かれる晴れやかな美しさの効果が生れないという演出なのであった」

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  実は、今回の見学で、視界が広がる感動は、ここばかりでなかった。下の茶屋を見学し、東裏門の扉を開けて外に出たときにも、私は声をあげたのだった。

 

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 目の前が野外だったことだ。松の植え込みの先には、田んぼが広がる開放感。不意打ちをされたといった驚きだった。向いに山々、遠くには比叡山が頂きを覗かせていた。

 茶屋の造り、装飾、庭の灯篭などとは別に、広大な修学院離宮の特長として、この開放感の演出が強く印象に残った。

 そしてこの開放感は、おそらく造園者の、戦乱を越え、織豊時代を経、たどり着いた江戸時代初め精神風景だったのではないか、と思わせるものがあった。