修学院離宮と東福門院のこと(1)

 戦後京阪電気鉄道の社長を長らく務めた村岡四郎は、同社の役員時代に、同社の事業として「趣味の京阪叢書」を刊行した。太平洋戦争のさなかである。

 1 中村直勝 水無瀬、山崎附近

 2 大塚五郎 嵯峨野の表情

 3 望月信成 宇治、醍醐

 4 羽栗賢孝 琵琶湖点抄

 5 稲山 始 洛北素描

 6 角倉太郎 比良展望

 7 重森三玲 古都百庭(観賞篇)

 8  同    同  (略史篇)

 9 藤原義一 京の古建築

10 吉井 勇 京洛点描 

11 北尾鐐之助 淀川

12 神根悊生 京の寺々

 

 神保町の古書店から3,4,7,8を手に入れたが、A5判で100ページほどの小冊子(30銭)ながら、内容が充実している。

 時代は「ぜいたくは敵だ」の国民精神総動員の真っ只中。村岡の発刊の言葉は、したたかなものだ。

「京阪沿線の歴史は遠く二千余年の昔に創(はじま)ってゐます。旧都京都は云ふ迄も無く、京阪電車の通ずるところ、そこには幾多の聖蹟史蹟が点綴され、尊厳無比なる皇国日本の歴史絵巻が展開されてゐることは我社の誇りとするところであります」。

「我社は堅忍持久の精神の涵養と困苦欠乏に耐へる心身の鍛錬に資せんがために、史蹟巡歴のハイキングコースを設定しますと共に霊坊聖地宿泊所、錬成道場を開設し、(中略) 青年徒歩旅行を創始しました」。

「趣味の京阪叢書」の発刊は「国民精神総動員に対応し、国民精神作興の一助とすべく、これら聖蹟史蹟名勝その他を正しく、且つ興味深く紹介すべく、ここに多数の権威者に嘱して御執筆を」依頼したもの、と記している。

今から思えば、鉄道観光事業に他ならないが、「交通報国」、「日本精神の発揚に資する事」と主張している。経営者の知恵なのだろう思う。

 

 おかげで、今回の修学院離宮の見学にあたって、7の「古都百庭」が役立った。

 作庭家でしられ、庭園史の研究家である重森三玲が、簡潔に離宮の庭を紹介している。

 

「修学院の地は、古く(平安時代)佐伯公行が、僧勝算をして一寺を創建し、修学寺と称せしめてゐたのに始まるが、寛永六年(1629)、後水尾天皇が御譲位になって後、徳川氏は叡慮を慰め奉らんとして、承応年中(1652-55)に、この修学院の離宮御造営に着手したのであった。斯くて御水尾院には、完成したこの離宮へ、明暦元年(1655)始めて行幸し給うた。」(カッコ内は補足)

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「この離宮は、上中下の御茶屋に別れ、上の御茶屋が最も広大な池泉廻遊式の庭園となってゐる。門を入ると大刈込の景観は誠に豊かで隣雲亭に達する道中、よく当代の好みが現れてゐる。池庭は修学院の山を背景とし、西に面して堤を作り、池塘はなだらかな傾斜を見せ、西山一体の遠景誠に筆紙に尽し難い美しさである。東南山麓には滝を作り、前に滝見の灯篭を用ひた唐様の形式が見られ、丘上には窮邃軒があり、更に北へ進むと、時の所司代内藤信敦の奉納した千歳橋を渡って萬松塢に出るのであって、御庭内の美しい景観を眺めることが出来る」

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 現在は上離宮、中離宮、下離宮という呼称だが、重森は「上の茶屋」などと称している。

 重森の、中の茶屋と下の茶屋の表記は、あっさりしていて、上の茶屋こそが、見るべき庭と考えていたことが伺われる。とりわけ、多数の樹木を寄せて植え、大きな長いカマで、全体に大きな形になるように刈り込んだ生垣のひとつ「大刈込」を、当代の好みとして特徴付けている。桃山から江戸時代の始めに流行ったものなのだろうか。

 1メートルもの柄に大きなカマをつけて、ざっくりと振り下ろして刈るらしい。頼来寺(高梁市)の庭では、サツキの大刈込が見られるという。

  重森は中の茶屋については、「楽只軒の前庭で、軽快な書院庭園とされ、流れと小池との景が美しい」とだけしか書いていない。

 しかし、離宮造営に貢献し、幕府からの支援を引き出した、当代きってのデザイナーでもあった後水尾院の中宮東福門院徳川和子)の面影は、中の茶屋に伺われるのではないか、と今回の見学で思った。