東福門院

大老酒井忠清の計画

生類憐みの令の実態がいまひとつ分からないので、いくつか本を探して読んでいたところ、興味深い事実に行き当たった。 5代目将軍徳川綱吉が誕生したのは、将軍家綱の後継の発表前夜、老中の堀田正俊が幕閣を出し抜いた策略によるものだった。すでに、人事は…

修学院離宮と東福門院(3)

修学院離宮は当初、上の茶屋と下の茶屋しかなかったが、時代が下って、後水尾天皇と縁が深かった近くの林丘寺の半分を中の茶屋として取り込んだ。 中の茶屋には、楽只軒や客殿など見どころがある。客殿は、仙洞御所北の女院御所の奥対面所から移築したもので…

修学院離宮と東福門院(2)

上の茶屋の大刈込については、近藤富枝が小説「東福門院和子 江戸の花女御」(2000年)で丁寧に描いていた。 万治三年(1660)五月十二日、落飾し法皇となった後水尾院と東福門院が修学院離宮に始めて御幸する最後のくだりだ。 「所司代牧野親成が馬…

修学院離宮と東福門院のこと(1)

戦後京阪電気鉄道の社長を長らく務めた村岡四郎は、同社の役員時代に、同社の事業として「趣味の京阪叢書」を刊行した。太平洋戦争のさなかである。 1 中村直勝 水無瀬、山崎附近 2 大塚五郎 嵯峨野の表情 3 望月信成 宇治、醍醐 4 羽栗賢孝 琵琶湖点抄 …