大老酒井忠清の計画

 生類憐みの令の実態がいまひとつ分からないので、いくつか本を探して読んでいたところ、興味深い事実に行き当たった。

 5代目将軍徳川綱吉が誕生したのは、将軍家綱の後継の発表前夜、老中の堀田正俊が幕閣を出し抜いた策略によるものだった。すでに、人事は内定していたが、堀田が夜こっそりと病床の家綱を訪ねて説得し、人事を覆して綱吉に決定したというのだ。

 後継は、京都・天皇家から有栖川宮幸仁親王が将軍におさまる予定だったという。

 

 当時、幕政は大老酒井忠清が仕切っていて、家綱の病状が悪化した時、京都から将軍を迎えることで了解を得て話を進めていた。家綱に嗣子がなく、すぐ下の弟綱重も2年前に没していたためだ。

 鎌倉幕府の源氏の血統が絶えたとき、京都から将軍を招いた例を参考にしたのだろうが、先に触れた後水尾天皇に、幕府から徳川家康の孫で秀忠の娘、徳川和子(まさこ)が嫁いでいたことも頭にあったのだろう。

f:id:motobei:20190924141527j:plain

「朝幕融合」政策で嫁ぎ、京都で力を発揮した中宮東福門院和子は、後水尾天皇の後を継いだ女性天皇明正天皇を生んでいる。同天皇の異母弟、後西天皇の子、有栖川宮幸仁親王徳川将軍家を継ぐことは、幕府側にとっては、当時さほど違和感がなかったことが分かる。

 堀田は奇襲戦法で、家綱の末弟で館林25万石綱吉の将軍誕生を実現させ、その後の歴史の大転換を阻止したのだった。酒井大老がなぜ、異母弟とはいえ綱吉を将軍候補から外していたのかは分からない。

  もし、酒井の提案が実現していれば、江戸幕府のあり方も随分違ったものになった。鎌倉幕府を北条氏が仕切ったように、江戸幕府も「お飾りの宮将軍のもと、老中率いる実務部隊が万事を取り仕切ることとなり、200年早い公武合体で、幕末の尊皇攘夷の沸騰もありえない」と山室恭子は「黄門さまと犬公方」(文春新書)で綴っている。

 生類憐みの令も発布されなかったことになる。