本所のさざえ堂について

 江戸時代に賑わった東京・本所の羅漢堂について、阿蘭陀油絵が文化年間に展示されたことから、「見世物寺院」だと前に書いた。


 木造の二重螺旋建築「さざえ堂」には、100体の観音菩薩を並べ、回遊式の東西羅漢堂には五百羅漢を据えて、歩きながら、お参り方々、見世物も楽しむようなお寺だったと。

 神保町の古本屋さんが、古雑誌で「江戸文化」を仕入れてくれていた。昭和5年発行の第4巻に、江戸座談会「奇人譚」というコーナーがあって、10人が座談を繰り広げていた。大倉集古館館長を務めた今泉雄作氏の発言に、「本所羅漢」が出てきた。

 「本所の五百羅漢は、五ツ目の渡し場にあって、其の五百羅漢が、御維新の時に墓地に売ってしまった、その金で地面を買って、まづ本所緑町へ引移って小屋がけをして、また持ちこたへられないで、目黒に移ったのです。/像は、庫裏の所にならべてありました、本所のは何しろ惜しいことをしてしまった。」
 
 明治維新廃仏毀釈の動きに寺の経営が出来ず、墓地として売り払い、近所で、一時「小屋がけ」をしたことが分かる。五百羅漢像を見世物にしていたのだった。目黒に移って、改築後今の五百羅漢寺にいたった。


 「螺蠑堂は、安政地震にやられてしまふ、只歩いてゐると三階へ出てしまふ、外から見ると螺蠑の如くなってゐる、子供の時おぶさって行きました」

 さざえ堂は、安政江戸地震(1855年11月11日)で倒壊したのだった。

 

f:id:motobei:20190916140113j:plain

 西巣鴨を散歩したとき、大正大学が建立した最新式二重螺旋建築「さざえ堂」に登ってきた。すがも鴨台観音堂という。百体が並ぶ群馬県太田市の蜘蛛堂百体観音、埼玉県児玉町の百体堂に比べると、きれいで静かで、その分、面白みには欠けていた。