修学院離宮と東福門院(3)

 修学院離宮は当初、上の茶屋と下の茶屋しかなかったが、時代が下って、後水尾天皇と縁が深かった近くの林丘寺の半分を中の茶屋として取り込んだ。

  中の茶屋には、楽只軒や客殿など見どころがある。客殿は、仙洞御所北の女院御所の奥対面所から移築したもので、東福門院が使用していたものだ。

そして、庭には気になる織部灯籠があった。キリシタン灯篭ともいわれているものだ。

 

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下の茶屋などには、袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠(写真上から)があり、灯籠で嗜好をこらしている。

 キリシタン灯篭と呼ぶわけは、灯籠の竿石の上部左右が丸く膨れていて、エジプト十字架のようであり、彫られたナゾの模様も、左90度回転すると、Lhqなどの文字に読めることから、「キリシタン」と関係があると一部でいわれてきたのだった。

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 左下の写真が織部灯籠(「キリシタン茶の湯」から)

  千利休の弟子、古田織部(1543-1615)は、そんなこともあり、キリシタンだったとする説がある。京都の古田織部美術館は昨年「織部キリシタンか」という企画展示を行った。結論は、そもそも千利休茶の湯自体が、宣教師がもたらしたカトリックのミサの作法に影響を受けたものであるが、織部が信者だという証拠はないし、おそらく違っただろうというものだった。

 利休の茶の湯の点前がカトリックのミサを参考にしているというのは、濃茶の回し飲みしかり、茶席の菓子の取り回ししかり、茶室のにじり口のくぐり戸しかり、と類似点が数多くあげられるのだという。

 利休の高弟「利休七哲」と呼ばれた人物、蒲生氏郷高山右近、芝山監物、瀬田掃部、牧村兵部細川忠興古田織部のうち、入信者が4人もいる(赤字名)ことからキリスト教との近さが伺われるのも事実だ。  織部キリシタンではないが、「キリスト教的なものに触れる機会が多分にあったと思われる」(「キリシタン茶の湯古田織部美術館編)としており、織部灯籠の暗号風模様はラテン語でなく、「辰」「是」などの漢字であるとの説を取っていた。

  東福門院織部のつながりはどうだったか。東福門院が入内したとき、すでに織部切腹しており、直接の接点はないが、織部の弟子とは深いつながりがある。小堀遠州や父親の徳川秀忠。秀忠の茶道の師匠であった織部は、大坂城夏の陣で豊臣方に内通したとして、秀忠に切腹を命じられた因縁がある。

 東福門院は、「朝幕融和」の政策に従って後水尾天皇と政略結婚させられた運命の人物だったが、やがて京都の寛永文化ネットワークの中心人物に成長してゆく。

 茶の湯では、織部の孫弟子にあたり、王朝風のおおらかな茶の湯を進め「姫宗和」といわれた金森宗和と接しながらも、「わび宗旦」といわれた千利休の孫、千宗旦を引き立てたとされる。

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 東福門院女院御所から移築した客殿を見ながら、低い欄干の「網干模様」が気になった。見慣れない模様。じっと見ているうちに、3つの十字を45度傾けたように見えなくもないことに気づいた。

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 織部灯籠ともども、キリシタンの齎した南蛮文化の残り香がほんのりと、中の茶屋に漂っているのではないか。