1冊の古本から恒友と龍蔵に辿り着く

 そんなことで、画家森田恒友と鹿島龍蔵氏のつながりをさらに調べるとー。
 
 国立近代美術館に収蔵されている森田作品20点(油彩、日本画、素描、墨絵淡彩の画帳)は、すべて龍蔵氏の子息(父といっしょに震災後の町を歩いた次郎氏)が、昭和30年に寄贈したものだった。
 
 龍蔵氏は、ことに恒友を可愛がり、作品を収集していたことが、近藤冨枝「田端文士村」に書かれていた。
 寄贈も、龍蔵の遺言に従ったものだと。
「大正十一年一月、田端人である小杉放菴(未醒)、倉田白羊、森田恒友山本鼎などが、主なメンバーとして加わっている『春陽会』が発足した。龍蔵は当然パトロンをなってバックアップした。龍蔵が一番愛した作家は、なかでも森田恒友であった」。
 
 ただ、大正12年9月1日、関東大震災の時までに、森田は中野に引っ越していた。
 森田は、当日、朝から風雨が強く、庭の樹木の揺れるさまを見て面白いと、11時ごろまで暢気にしていた、と「地震に遭った秋」という文章に記している。
 上野の2つの展覧会の招待日だと思い出した森田は、薄日も差してきたので、昼過ぎに出かけようと思ったところ、正午前に地震が襲った。庭に飛び出し、つげの木の下に家族4人が隠れ、樹幹につかまったという。
 
「ひどく地震が嫌ひで、恐ろしがる性質」の恒友は、朝からぼんやりしていたおかげで、外出せず、自宅で家族と無事過ごすことが出来たのだった。
 
 二人のその後の接点を探るとー。
 恒友の昭和八年一月の病床日記に、「鹿島」の名が出てきた。鹿島龍蔵氏に違いあるまい。この年四月に恒友は逝去した。
 
一月八日 晴 風 寒
(中略)
発信 小川、平福、ふみ、栗原、鹿島。
 
一月十一日 小雨 少暖
(中略)
鹿島氏より見舞に羽根掛けふとんを贈らる。又来便あり。氏の厚情嬉し。特に今日は嬉しく思ふ。鹿島氏の友情厚きを謝す。
 
 両人の交流は、恒友の最期まで続いていたのだった。恒友の繰り返しの感謝の表現は心を打つ。
 
イメージ 1
 
 龍蔵氏は、事情があってか、「鹿島」でもメーンロードは歩まなかったようだ。
 実母は確か、京都で暮らしていたと、古本店の御主人が言っていた。
 
 龍蔵蔵書印のある「京都古蹟行脚」。京都に特別な思いを抱いていたのだろうことを想像すると、この本への思いも伝わってくる。
 本人のものと思われる、繊細な字の書入れも見つけた。ただ単に川勝政太郎氏の著作に惹かれて買ったところが、本は別の重みを持ってしまったようだ。