パリから白秋への激励はがき

 画家の森田恒友がパリに到着した大正3年第一次世界大戦が勃発した。戦時下のパリでは、親友の画家山本鼎が待ち構えていた。版画同人誌「方寸」の仲間たちは、石井柏亭を皮切りに、次々に留学したが、森田はとんでもない時期の渡欧となった。

 

 この時山本は、パリから小笠原父島に暮らす北原白秋に書簡を送って、森田の来訪を伝えている。森田は、仲間の洋画家正宗得三郎らと一緒だった。

森田や正宗や音村が着いた。巴里も大して妙でないが、日本へもあまり早くかへり度くはない」。

 若き日、白秋は、文芸と美術家の懇親会「パンの会」(明治41年)のメンバーとして、「方寸」の画家たちと交流していたのだった。

 

其後はどうしてゐる。しばらく目で君の歌を見た。手紙をくれ給へ。武侠世界の口絵で君の姿を見た。ほんとにどうして居るかな」と、3歳年下の白秋(当時30歳)を心配している。

 以前触れたように、白秋は大正元年人妻俊子と姦通罪で拘束されるスキャンダルを起こした。翌年2人は結婚したが、俊子が胸を病み、小笠原父島へ転地療養のため大正3年3月に移住したのであった。

 

 パリに届いた読物雑誌「武侠世界」に父島で暮らす白秋が取り上げられていたのを見て、山本は便りを出したようだ。

 白秋が小笠原に移住した1か月後、同誌を編集・発行する押川春浪アルコール中毒の療養のために同島に転地、画家倉田白羊も同行して、「口絵」で白秋を紹介したのだった。パリに同誌を送ったのは、白羊だろう。「倉田(白羊)によく会ふだらう」と山本ははがきの中で書いている。

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 白秋への便りで、大正2年からパリに滞在する作家島崎藤村と、モーパッサンやボードレーヌの墓詣でしたことを書いているが、絵葉書は、詩人ベルレーヌの肖像のものを用いた。石造彫刻は、今もパリ・ルクサンブル美術館の庭に展示してある。

 象徴派詩人のベルレーヌといえば、若い妻を置いて、詩人ランボーと同棲し、欧州を旅し、旅先でランボーに拳銃を発射してけがを負わせ収監されたーといった波乱に満ちた青春時代が思い起こされる。

 

 スキャンダルで人気凋落した白秋に対して、なんのなんの、詩人のベルレーヌはすごいぞと、彼の絵はがきを択び、激励しているようにも思える。

 

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 この手紙は、コロナ休業を終えた神保町のY書房に挨拶がてら足を運び手に入れた「多摩」(昭和21年11月特集号)の木俣修の小コラム「白秋に当てた書簡(一)」で知った。表紙絵は白秋。

 「山本鼎の手紙」(1971年、上田市教育委員会発行)にも紹介されていない便りだった。