恒友の巴里通信

 古本店で見つけた歌誌「多摩」をきっかけに、美術家としての北原白秋に興味を持ったが、調べてみると、版画美術に情熱を燃やす「方寸」の若き集団と、明治末から大正時代にかけて、強いつながりがあったことが分かった。

 スバル系の詩人と美術家が交流した明治41年暮結成の「パンの会」は、後に参加した高村光太郎の印象が強くて、「方寸」の版画家たち(石井柏亭山本鼎森田恒友)の存在を見失っていたのだった。

  明治42年の白秋の処女詩集「邪宗門」(東京易風社)を見てみた。石井柏亭山本鼎が装幀、挿絵で白秋に協力しているではないか。

 

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 装幀                 石井柏亭

  「エッキスリブース」及「幼児磔殺」 石井柏亭

 挿画 「澆季」            石井柏亭

 挿画 「真昼」            山本鼎  =写真下

 私信「四十一年七月廿一日便」     太田正雄(木下杢太郎)

 挿画 「硝子吹く家」         石井柏亭

  扉絵及欄画十葉           石井柏亭    =写真上

 彫版                 山本鼎

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 リーダー格の柏亭が、装丁や挿絵、多数のカット類を引き受け、鼎は「真昼」という挿画1点と「彫版」という大事な役割を担った。これで白秋と鼎は信頼関係を結ぶようになったとされる。

  ところが柏亭と鼎の方は、仲がこじれてしまった。鼎は柏亭の妹と恋愛し結婚を決意するが、兄柏亭初め、両親が大反対したのだ。結局結ばれず、傷ついた鼎は柏亭一家に強い不信感を抱いたままパリへ向かったのだった。

 鼎は人から好かれるタイプだったようだ。妻と3人の娘を亡くしてパリにやってきた作家島崎藤村は、年下の鼎と出会い、精神的に頼った様子が伺える。

 両親に宛てた手紙で、鼎は藤村のことを書いている。

巴里に居る人で藤村氏と最も懇意な人は私でせう。藤村氏は妻君が死に、長女二女三女が死んじまったので、まったく人一人前の事は終わっちまった様な気がして居ると申して居ます。こっちへ来る時は外国の土となるつもりだったが、今は『山本君と一所に日本へ僕もかへらうかな』なぞといって居ます。日本に男の子を三人残して来て居るのです。其子の養育費を巴里から稼いで送らうといふのだから、なかなか大へんです。藤村氏は四十五だが、顔はまだ若々しい人です」(山本鼎の手紙・大正2年10月25日)

 

 藤村はパリ滞在の様子を「新生」という長編小説にした。岡という名で、鼎が登場し、小説でも大きな役割を演じている。鼎の周辺の若い画家たちも出てくるので、その中に森田恒友の面影を探したが、よくわからない。

 藤村は新聞、雑誌にパリ滞在記の原稿を送ることで、養育費を得たのだろうが、森田恒友も「大阪毎日新聞」にほぼ月一回のペースで原稿を送っていた。

 恒友が渡欧前々年まで在籍した大阪毎日新聞文化部に元上司の薄田泣菫が依然勤務していたので、恒友の原稿は泣菫が担当していたことが考えられる。

 

 大正3年 6月14日掲載 上海 / 6月28日掲載 香港 / 7月12日掲載 コロンボ /9月18日掲載  パリ / 10月11日 パリ

 大正4年 1月21日 プロヴァンス / 2月21日 南仏エックス / 2月28日 パリ / 3月7日  パリ / 5月23日 パリ / 10月10日  スペイン・グラナダ

 

 恒友の場合は、新聞掲載を条件に渡航資金として先払いで原稿料を貰っていた可能性もある。

 9月1日にパリから送った原稿は、10月11日付で掲載。日本に原稿到着するのに1か月かかったことが分かる。

独逸兵は今日あたりリボンフーズ辺まで来ました

ルーブルのビーナスやビンチのヂョコンダは、鋼鉄の箱に入れられて何れへか隠されましたのは、二三日前です。/巴里市中は今朝から再び殺気立ちました

 生々しいパリの様子を「大毎」に送ってすぐ、恒友は大使館の勧めでロンドンに退避した。

  恒友の置かれた状況を今から振り返ると、

 2日後の9月3日、パリに進撃する予定だったドイツ1軍は、パリの東方30キロを通って、マルヌ河畔に集結した。

 これに対し、6日フランス5軍、6軍は、東西から挟撃。西部戦線で早い決着をつけたいドイツ1軍は6軍に絞って集中攻撃した。

 フランス軍はパリを守るため、パリのタクシー630台を徴発して兵員をマルヌ河畔に輸送、なんとかドイツ進撃を食い止め、戦局は膠着状態になる。

 ミロのビーナスモナ・リザは第二次大戦では、ロワール渓谷の別々の城に退避したが、この時もルーブルから何処かに移送されたのが、恒友の報告で分かる。