宣戦布告日の伯林と巴里

 大正3年6月10日、画家森田恒友がパリに到着して、50日ほど経ったとき、ドイツが宣戦布告。フランスは第一次世界大戦に突入する。パリで仲間の画家たちと連日美術館、展覧会を巡り、先輩画家の山本鼎と郊外の短期旅行に出て、最初の1か月を過ごした森田は、喧噪のパリに慣れなかったものの、下宿に戻ってはロートレックセザンヌの作品をじかに触れて高揚した気分を反芻する日々を送ったようだ。

 

 戦争勃発は、彼らは予想もしなかったのだろうか。

 

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 ドイツ・ベルリンで当時暮らしていた山田潤二「伯林脱出記」(大正4年、千章館=写真は扉)が本棚にあるので取り出してみた。

青天の霹靂、戦争は来れり、見よ市中到る処の広告塔は赤紙に変ぜり。千九百十四年八月一日午後五時全独逸の動員令は降れり、此一時間に於ける市民の状態、右往左来、疾走、佇立、団集、群吼、酔へるが如く、狂へるが如く、憤るあり、哭くあり、訴へるもの、叫ぶもの、騒然亦愴然。

予は実に此時に至る迄開戦すべしとは思ひ設けざりしなり」。

 

 森田たちは無理もない。ベルリンの山田さえも予測していなかったのだった。

 

 戦争体験がないので、宣戦布告のあと市民生活はどうなるのか、実感がない。物価の高騰を、山田は生々しく描写している。翌2日早朝、下宿の主婦が珈琲を運んで来て、「塩が二倍に暴騰し馬鈴薯は三倍し肉類亦約五割を騰貴せりと訴」えたという。戦争で物資が不足するのを見越して、金儲けをたくらむ連中が買占めたのだった。

  山田は、日本宛の郵便を出そうと考えるが、突き戻され本局へ足を運ぶ。と、警官が電信本局を囲繞していた。「敵国の間諜が窃に爆弾を以て破壊を企てんことを慮りてなり、総ての交通機関を警戒(中略)溝渠の小鉄橋に到る迄も武装の兵士をして守備せしむ」

 通信、輸送機関は直ちに封鎖されたのだった。日本への手紙はロンドンに避難してから発信し、無事を知らせる手紙が届いたのは、11月末だった。

 

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 この時、パリでは、ドイツの対フランス宣戦布告(8月3日)以前の7月31日に空襲があったと、山本鼎が8月1日の父への手紙で記している。 

巴里包囲も時間の問題となっちゃいました。昨日独軍の飛行機が巴里市の上に十二個の爆裂弾をなげました。私は明朝友人と何れかの線で英国に行きます」。

  しかし、パリでも鉄道は軍が確保し、民間人まして留学生は乗車できなかった。同3日の手紙では、「仏蘭西は、三百万人の動員をせんと告到候。其ためすべての汽車は軍隊の専用となり、巴里内外の交通全く絶え申候」。「各銀行はとりつけに会ひ、銀貨をのぞく補助貨幣は全く不通となり、われわれは百法の札を握りながら街をかけめぐりて、なほ食を買ふ事叶はず。殆ど前途を恐怖致候。

 

 市街に通ずる城門は閉鎖され、市場も閉じた。「小生はやっと一キロの薯と十五キロの伊太利亜米と、一束のナベ(大根)を得たるのみ」。(いずれも「山本鼎の手紙」=上田市教育委=から)

 

 留学どころの騒ぎではない。森田は、他の時期の留学画学生とは、全く別の欧州体験をしいられることとなった。帰国後、洋画から日本画(新南画)へと作風が一転し、水郷や関東平野桃源郷のような自然描写へ突き進んでゆく一つの契機が、欧州戦時下の体験があったのではないか。彼らの手紙を読んでいくとそんなことが心に浮かんでくる。