幻に終わったセーヌ河岸の共同生活

 猫が騒いで、本棚の天辺から物を落とす。紙箱が落ちて、マッチが散乱した。懐かしいものが沢山出てきた。

 

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 金色と茶のマッチは、ただ一度だけ訪問したパリ宿泊先ホテルの思い出深いものだ。ホテル創立100年にあたる1978年だったのだな。42年も経っている。

 

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 社会人になってほどなく、私が仕事でイタリア方面に行くのを聞いた上司が、ならばパリに寄って、フォリー・ベルジェール劇場の舞台に立っている元宝塚歌劇のN・Kに会って来てほしいと頼んできたのだ。手渡してほしいものがあるし、様子を見てレポートしてほしいと。

 インターコンチネンタルホテルに、Kさんが単身で訪ねてきてくださり、緊張しながらもホテルのレストランで2人きりで食事したのだった。初めてあった元タカラジェンヌは、年上のせいもあって、美しくも、肝の坐ったしっかりもののお姉さんの印象だった。すぐ心根のいい方だと分かった。

 翌日劇場に行って、時代を感じさせる室内装飾のホール客席で、彼女の歌を聞いたのだった。客席とコミカルなやり取りをしていた司会者が、日本のトップスターの名を告げると、堂々とした様子で登場し、彼女のショーが始まった。客席に日本人は見かけなかったが、大きな拍手が沸いた。単身堂々とパリで歌っている彼女に畏敬の念を抱いた。

 彼女は、帰国後東宝のミュージカルで活躍し指導的役割を果たしたが、2000年を迎える前に、亡くなった。上司はその前に派手な自動車事故で亡くなってしまった。

 

 私のパリの思い出話はこれしかない。

 

 大正3年のパリの話に戻ると、驚いたことに、北原白秋は画家山本鼎と、そして森田恒友と3人で一緒に暮らす予定になっていたのを、今回、鼎の手紙で知った。

 

 パリから両親に当てた大正2年10月25日の長い手紙に、

森田は来年は来ます。正宗(得三郎)もやって来るさうです。北原(白秋)は僕の画室へ、来年の二月には舞ひ込むといって来ました。来年の二月頃は、私は9.Quai du Fleur (花町河岸)といふ処へ引き移る事にしました。名の如く花市のたつ河岸で私の住おうといふ室の前はセエヌ河で、巴里市庁や、サラベルナール座、ノートルダム寺院なぞのそばです。それは料理室とも四室あって、元和田三造君が居た家です。今居る処よりか十五法(六円)高いのですがよほど便利です。北原、森田が来たら当分三人で住んで見やうかとも思って居ます」(山本鼎の手紙)

 

 たまたま関心を持った人たちが線と線で結ばれてゆく。森田恒友北原白秋パリで一緒に暮らす可能性があったなんて、思ってもみなかった。

 

 鼎の思いは、実現しなかった。白秋は苦難の生活を送り、小笠原父島へ移住。パリ来訪どころではなくなった。やってきた森田も第一次大戦の勃発で危険なパリを離れ、鼎と別々にロンドン、リオンと避難することになった。

 運命というものは、だが面白い。鼎は帰途モスクワで、白秋の妹との縁談を紹介され、帰国後の大正6年家子とめでたく結婚することになった。