虎杖をくわえながら墓掃除していた若い修行僧の句について、思い当たることがある。
東京生まれの川端茅舎は、若き頃、度々京都の東福寺正覚庵で過ごしていた。医師への道を取りやめ、兄の川端龍子同様、絵画を目指して岸田劉生に師事する、その前からだった。
今では、紅葉の名所として観光客であふれかえる東福寺の一塔頭にのんびりと籠っていたのだった。
私が、茅舎の京都時代について関心をもったのは、神保町のY書房で偶然手に入れた、松本たかし主宰の俳句誌「笛」昭和23年9・10月合併号だった。丹波の俳人京極杞陽の「茅舎に就て」が掲載されていて、猿橋統流子という人物からの便りを紹介。猿橋氏が正覚庵の僧侶だった平泉恵信師から聞いた話を書いていた。
それによると、茅舎は早々と中学在学中(独協中学)から、臨済宗東福寺の正覚庵に出入りしていたらしい。「中学時代もこの恵信坊と共に悪戯せし思い出を聞きました」と猿橋氏。半年以上滞在することもあり、絵を描き、俳句を作り、そして禅の修行にいそしんだらしい。
寺の修行僧、7歳年下の恵信師を上記のように「恵信坊、恵信坊」と呼んで可愛がり、弟分のように従えていた。実際、
「囀(さえずり)や拳固(げんこ)くひたき侍者恵信」
「侍者恵信糞土のごとく昼寝たり」と、
恵信師を「侍者(雑用係)」扱いした句を残している。
正覚庵の居心地が余程よかったのだろう。住職の平泉温洲師を描いたと思しき
「和尚また徳利さげ来る月の庭」があるし、住職夫人の様子も、
「梵妻や芋煮て庫裡をつかさどる」の句で彷彿とする。
恵信が雲水姿で上京し、茅舎を訪ねたことがあり、茅舎が雲水姿の恵信と連れだって東京を案内したこともあった。「まんぢゅう笠に膝まで脛を出し草鞋ばきの恵信坊とつれだちて歩きながら茅舎が、恵信坊の歩いたあとは風が新しくなる。というやうな意味のことを言ったといふ」と記されている。
茅舎の初期の寺坊や僧の句は、殆んどがこの正覚庵での作らしい。「達磨忌や僧を眺めて俳諧師」も、東福寺の達磨忌の情景で、堂内を「赤青紫黄など法衣の僧がグルグル廻る」行道の盛大な行事を見ての一句だという。
大正12年9月1日の関東大震災で被災した26歳の茅舎は、3週間後の夜10時ごろ、甚平姿で京都のこの庵に到着し、その後、庵で半年ほど過ごしたと、恵信師は語ったという。
茅舎の年譜には「関東大震災で日本橋区蛎殻町の家屋焼失。信州、渋温泉に父母と共に避難。十二月、岸田劉生の家に泊まり越年」(「川端茅舎/松本たかし集」朝日文庫)とあり、茅舎は渋温泉から京都に出、年末には庵を出たことになる。
1929年に劉生が38歳で逝去すると、茅舎は画業を放棄し、俳句に打ち込んだ。高浜虚子に師事し、34年「ホトトギス」同人に。
「虎杖を啣へて沙弥や墓掃除」の句もまた、若き日正覚庵での句に違いなく、おそらく恵信師が墓掃除する様を描いたものだろう。同時期に「しぐるるや沙弥竈火を弄ぶ」という沙弥を描いた句もある。
晩年の脊椎カリエス、結核との闘病の句の印象が強い茅舎には、京都での弟分との明るい青春時代があったのだ。
一度、「正覚庵」を訪ね茅舎を偲びたいと思ったが、同庵のHPによると団体やツアーでないと拝観は受け付けない、とあった。