今年は陽気のせいで、タケノコの伸びも早いようだ。タケノコを呉れる人が連続し、断っても家まで強引に車で運んできたりする。玄関に運ばれたタケノコを見たとき、発達しすぎて固くて食べられないのかと心配したが、包丁を入れると柔らかい。
子供が小さかった時、5月の連休となると、決まって武蔵高萩の友の庭でタケノコ掘りをしたことがあるから、4月下旬のタケノコは例年より早い気がする。
タケノコの増殖力には、目を瞠るものがあるが、ことしは当たり年なのだろうか。
古い家を借り、独り住まいの若い女性が、春が過ぎ、なんだか変だとおもいながら、家で過ごしていると、家が少しずつ傾いている。ある日、タケノコが床を破って大量に頭を出して原因が分かる、というちょっとホラーめいた漫画を読んだ記憶がある。(坂田靖子でなかったか)。
隣のタケノコがうちの庭に顔を出す。私の好きな江戸時代の俳人、大伴大江丸(1722-1805)が句にしている。
竹の子や あまりてなどか 人の庭
あまりてなどか、が分かりにくいが、ありあまってあふれるように、といったところだろう。
平安時代の源等(880-951)の恋の歌、「浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」(後撰集)を元にしているとされる。歌の意は、《人には隠しているけれど、あの人への恋しい想いがあふれてこぼれそうになる》。
同じ「あまりてなどか」の7文字を用いて、恋でなくタケノコがあふれ出てきたよ、と大江丸は句に仕立てたわけだ。恋の平安朝と違って、江戸時代の大阪は食い気でっせ、という時代精神も伺えると思う。大江丸には
秋来ぬと目にさや豆のふとりかな
とやはり、古今和歌集の歌を食い気の句に替えたものがある。
経営に携わってからは飛脚のネットワークの維持、開拓のため地方を回り、大阪―江戸、関東ばかりでなく、東北地方にも足を運んで新規開拓した。70回以上東阪を往復。出張先の上野・高崎の系列店では飛脚業の経営顧問をしながら、俳諧の寄り合いを盛んに開いている。句会を得意先などとの交流にうまく取り込んだようだ。
江戸時代の飛脚制度の全容に迫った力作「江戸の飛脚」(巻島隆、教育評論社、15年)に、大江丸のことが出て来たのに吃驚。変わり者に見えた俳人が経営者として、アイディアあふれしっかりしていたことに目を開かされた。
住吉大社の境内の松が次々枯れたとき、資金集めのため、大江丸が一肌脱いだことも紹介されていた。境内に松苗茶屋を設けて、参詣客に松苗を買ってもらい、参詣者へのお礼もかねて俳諧、詩歌を作ってもらった。それを「松苗集」にまとめたところ、14巻にも及んだ。町人たちも巻き込んで植樹運動を繰り広げたわけで、今でも「緑化運動の先駆」として称え、住吉大社で4月8日に、松の苗を植え、俳句を作る松苗行事が続いている。
竹のことから、梅を通り越して、松へ話が移ってしまったが、大江丸の、人を巻き込んで事業、運動を広げてゆく手法は、タケノコの増殖と似ていないこともない。