日本画の平福百穂が描いた、長塚節「土」(明治45年、春陽堂)の扉絵の、紫の花を、細に見せた。開口一番「オダマキ!」。意外な答えが返ってきた。
WEBでチェックすると、オダマキに見えないこともない。
日本に生息するオダマキは、ミヤマオダマキ、ヤマオダマキの2種類。
ミヤマオダマキは、「高山の礫地に生える高さ10~20㌢の多年草」「鮮やかな青紫色の花を下向きに開く」「庭に栽培されるオダマキは本種の改良種と考えられている」と、「日本の野草」(山と渓谷社、1983)に記されていた。
歳時記で調べてみると。
「をだまきの花」は、初夏の季語。
「晩春から初夏にかけて咲く花で白に黄を帯びた花と、藤紫の花とあるが何れも美しく上品である。葉も淡緑の複葉で切込みの深い形も美しい」
「又田植のころの農家の庭などに咲き垂れてゐるのを見かけるがどこか鄙びた感じである」(「新編歳時記・水原秋櫻子編」大泉書店、昭和41年)
をだまきや山家の雨の俄かなる 秋櫻子
をだまきに植ゑのこる田の夕あかり 柯城
などの句が掲載されていた。
田植の頃の農家の庭に咲いているオダマキは、明治の外来種のセリバヒエンソウより、小説「土」には、ふさわしく思える。
「土」の装幀には、もう一点植物の版画がある。函の背に描かれた果物。葉の形を見て、枇杷の実に違いない。
手がかりを求めて、近くの図書館で「長塚節全集第6巻・書簡1」を借りた。
「明治四十一年六月二十六日」、節から平福百穂宛のものに、枇杷に触れた個所があった。
「只今六月の末にて枇杷の漸くうまく相成候こととて、往年の筑波行を思ひいで申候 但し枇杷は年々なり申候へども、あの時ほど余計になり候ことは前後に無之候」
6月末になって、わが里(常総)にも枇杷がようやく実ってきて、往年(5年前)一緒に出かけた筑波の旅行を思い出しました。枇杷は年々なるものですが、あの時の有り余るほどの豊作は、後にも先にもないことでした。
手紙の末に、二首添えていた。
おほさはにならぬ枇杷の樹ことしだに君来といはばなりにけんかも
今年も枇杷の季節となったが、あの年ほど豊作でない。しかし百穂が訪ね来てくれれば、枇杷もたわわに実がなるかもしれない。
明治36年の伊藤左千夫を交えた3人の筑波旅行は、豊作だった枇杷の思い出とつながっていたのだった。枇杷の絵は、単なる枇杷ではあるが、彼らにとっては、思いがこもった枇杷であることが分かる。