あの書店は小倉の金栄堂だった

 半世紀近く前のこと。萩に仕事で向かい、乗換え駅の山陽新幹線小倉駅で下車した。書店を見つけてこれから先の旅で読む本を買ったところ、本をくるんだブックカバーに目が行った。デザイン・伊丹十三の名前があり、新鮮な驚きを感じたことを鮮明に覚えている。

 そのころ伊丹氏は俳優で、「お葬式」(84)の監督デビュー前だった。九州の一書店が俳優の伊丹氏に店のブックカバーを、どういう経緯で依頼したのか不思議に思ったのだ。旅を終えてからも、このブックカバーを大事にしていた記憶がある。

 

 監督デビュー前の同氏が、人気テレビ番組の「遠くへ行きたい」に登場した回を覚えている。毎回ゲスト出演者が旅をするというのが定番だったが、伊丹氏は東京で青空を探す、というテーマで番組を拵えた。当時は光化学スモッグ注意報が頻繁に出、青空が都心で見られない頃だった。車に乗って、伊丹十三は、青空探しに出る。「青空の大看板」とか、東京にある青空のグッズを次々に掘り出してゆくー。発想が新鮮だった。

 その頃北九州の書店が、伊丹氏に依頼したことになる。ずっとそのことが気になっていたが、書店は今はない「金栄堂」という小倉の店であったことが、伊丹十三記念館のホームページで知れた。

 当時の店主は柴田良平氏だった。1979年、創業65周年を迎えている(大正年間創業なのだった)。同年7月、吉本隆明を招いて記念講演会を開催している。ほぼ日刊イトイ新聞に講演記録が公開されているので、確かめてみると、柴田氏の発言も残っていた。

 「商人である本屋」は「本の背中を見る者」であり、お客の「読者の方々」は「本の中身を見る方々」である、となるほど、面白いことを言っている。

 で本屋とは、この両者、「本の背中を見る者」と「本の中身を見る方々」が「厳しく温かい対決をする場所」なのだという。

 

 ああ、こういう店主さんなら、伊丹十三の画にいち早く目をつけてブックカバーデザインに起用する早ワザを想像できた。

 

 私の手もとにある東京・荻窪の岩森書店のブックデザインは私のお気に入りである。絵本作家のスズキコージ氏のデザイン。アマゾンで頼む習慣がついたが、本屋を尋ねてオリジナルブックカバーを愉しみたいと思った。

 

寅彦の飼猫、三毛と玉

 短編なのに、最後まで読み通せない作品がある。子母澤寛(1892-1968)の「ジロの一生」(「愛猿記」=56年、文春新社)。あまりにけなげなジロという犬が悲しくて、涙で最後まで読み切れないのだ。

 可愛がれていたジロだが、新米の飼犬アカに主人の愛情が移ってしまう。じっと耐えながらも、ジロは東京の家を離れ、主人との楽しかった思い出の海岸、鵠沼の別荘まで長い距離を独りで走って行く。場面を読んで、私はペットを同時に2匹は飼うまいと決心したのだった。

 朝、細が見るワイドショーで、散歩から帰った犬が、別の飼犬を抱っこして可愛がる主人を見て、嫉妬して目で訴える動画が流された。かわいいといって、出演者たちが馬鹿笑いしていた(デリカシーのない人に見えた)。

 

 猫の場合は、どうだろう。夏目漱石の門下で物理学者の寺田寅彦吉村冬彦)は、大正10年に2匹の子猫を飼い始めた。

  三毛のメス猫「三毛」と、

  黄色で褐色の虎斑があるオス猫「玉」。

 

 家族はみな、三毛を可愛がった。我儘で贅沢だが挙動に「典雅の風」があり、「最も猫らしい猫」と一身に愛情が注がれる。

「玉」は、「粗野で滑稽な相貌」「遅鈍で大食」と無視され、三毛の遊び相手の「道化師」としてのみ認められたのだった。 

 三毛は春寒になると外出し子猫を生む。7年間で30匹。初産では4匹を死産するが、子供たち(姉妹)が子猫を拾って来て、三毛に与える。三毛は子猫に乳を含ませながら元気を取り戻すのだった。二度目のお産では4匹が生まれた。皆貰われたが、寅彦は三毛の子供の記念として、4匹の寝姿を絵にしたのだった。

 

 三毛、玉はともに7年生きて、昭和2年に亡くなった。

 玉は春先になると、盛りがついて、家の中で尿をする。家族から「追放」の話が出、病院で去勢手術をすることになった。その後元気を失い、「庭の青草の上に長く冷たくなって居た」のを子供が発見した。病気で伏せていた寅彦は、その姿を見ず、他の猫と同様に庭の桃の木の下に埋葬させた。

 

 三毛は、最後の産褥で弱り、胸に水が溜まる病気となり、病院でも治療法がないと宣告された。一日中動かず、行儀よく座って、人に呼ばれると眩しそうにその顔を見、返事をしようと鳴いても声が出なかったと、寅彦は書いている。夫人に看取られて三毛は静かに亡くなった。「有合せのうちで一番綺麗なチョコレートの空函を選んでそれに収め、庭の奥の楓樹の蔭に埋めて形ばかりの墓石をのせた」。埋葬も別待遇だった。

 さらに、寅彦は通勤の車中で、三毛の追悼歌を4曲作り、伴奏をつけて楽譜にしたりした。やがて、三毛の孫猫を親戚から貰い受けて、三毛を偲んだ。

 

 寅彦は、玉について「舞踊」と題して短い文章を書いている。

 玉は風呂に入る寅彦についてきて、寅彦の脱衣の上に乗って、前脚で揉むように足踏みをするのが癖だったという。「裸体の主人を一心に見つめながら咽喉をゴロゴロ鳴らし、短い尻尾を立てて振動させ」たという。

 三毛に劣らず、可愛いしぐさの猫ではなかったか、と私には愛おしく思えるのだ。

 

 (絵は寺田寅彦作。表記はないが、上が三毛で、下が玉のように思える)

 

 

 

 

 

馬来田が「まぐだ」と読める訳

 モンゴル語は「母音調和」があり母音の多いことで知られるが、日本語も古代は「上代特殊仮名遣」があって、音によっては甲類乙類に別れ、母音の数も8種類あったと想定されている。日本語とモンゴル語は共通項が多いのだ。

 

 

 以前、モンゴル語の音韻変化の特徴が、日本語でも伺えるのではないか、と書いたことがある。長母音など母音と母音が並ぶモンゴル語は、12世紀までその母音間に子音gがあったというものだ。

 例えば、古代モンゴル語では山はagula(アグラ)だった。ところが母音のaとuの間のgが抜け、aula(アウラ)に変化し、今では⊃:la (オーラ)になった。

 日本語でもそのことが伺われるのではないかと調べると、奈良・二上山の東麓の當麻寺の當麻がこれに当てはまった。当麻の地名はタイマ、あるいはトウマと呼ばれているが、奈良時代に編集された日本書紀古事記では、當麻はタギマと呼ばれていた。

 tagimaのg音が抜けて、taimaとなったと解釈できたのだ。

 古事記に登場する但馬・由良川の族長、竹野(タカノ)由碁理(ユゴリ)も似たケース。ユゴリ yugori のg音が抜けて、yuora。それがyuura(由良)になった、と推測できた。

 新羅がなぜシンラでなくシラギなのか、相模もソウモでなく、サガミなのか、g音を加えることで解釈できることが分かった。

 

 今回新たな例が見つかった。

 千葉の木更津市郷土博物館金のすずで、特別展「奈良へのまなざし~馬来田から望陀へ~」が開催されるというので調べてみた。金鈴や装飾馬具が出土した木更津の金鈴塚古墳のある地域は、もともと馬来田国だったが、壬申の乱後に上総国馬来田評(こおり)になり、奈良時代になると「上総国望陀郡(こおり)」と呼ばれたという。

 藤原京平城京出土の木簡「上総国馬来田評」「上総国望陀郡」のレプリカも展示されるのだった。

 藤原京の時代、馬来田評とよばれたものが、平城京では、望陀郡に変化したのだった。「こおり」の表記が、評から郡に変わった頃、馬来田から望陀になったのだった。

 g音の脱落で、解釈してみた。

 そもそも、馬来田はマグダ maguda と呼ばれたのだろう。

 母音の間のg音が抜けて、mauda。マウダはモウダと発音されて、望陀になった。g音が抜ける変化が、藤原京から平城京への遷都後に生じていることは、大変興味深い。

 馬来田評や、それ以前の馬来田国は、「まくた」「うまくた」だったと解釈されているようだ。実は、「まぐだ」と呼ばれていたことが、古代モンゴル語の応用で明らかになると思う。実際、江戸時代まで地元では「まぐだ」と呼ばれていたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥獣戯画絵巻施入と湛慶と

 西行法師が鎌倉の鶴岡八幡宮源頼朝から貰った銀製の猫をめぐって、つらつらと書いてきた。銀猫は残っていないが、同時代の中国・宋の写実主義絵画の猫をもとに作られたと推測した。さらに、時代は40年ほど下るが慶派の仏師湛慶が制作した京都栂尾・高山寺に残る国宝の小犬の木像によって銀猫が偲ばれるのではないかと記した。

 

        



 その際、高山寺の開祖明恵上人の動物への偏愛ぶりを書いた。その高山寺に20種類余の動物の戯画が描かれた「鳥獣戯画絵巻」が今に伝わることがずっと気になっていた。明恵上人と関係があるのではないかと。絵巻は明恵上人の没後に寺に施入されたとのことで、そのままにしていた。

 

 あらためて、鳥獣戯画絵巻の論考を調べ高山寺との関係を自分なりにまとめてみた。

 

 鳥獣戯画絵巻は12世紀ごろ、天台宗鳥羽僧正覚猷(乃至は彼のような絵が達者な僧侶、あるいは宮廷画家)によって描かれた。動物を擬人化して祭りの様子を描くのは、他に年中行事絵巻の一部で見られ、当時動物の戯画が流行していた可能性がある。鳥獣戯画絵巻は、後白河法皇が宝殿(蓮華王院)に蒐集していた膨大な絵巻、書画などのコレクションの一つだったと考えられる。宝殿から仁和寺に宝物が持ち出された文書があり、この絵巻も仁和寺に移されたらしい。それを高山寺に持ち込んだのが、仁和寺の道深法親王(1206-1249)か、法助(1227-1287)で、彼らは明恵上人没後、高山寺に堂宇を建てて住持していた。おそらく明恵の十三回忌に経蔵の宝物を充実させるために、秘蔵されていた仁和寺から移したと考えられる。

 

 明恵上人の十三回忌は、1244年。高山寺の草創に関わった画家、仏師はどうしていたのか。詫磨俊賀は上人の没年(1232)に、高山寺三重塔の五秘密曼荼羅を制作しているが、その後同寺との関連は見つからない。一方、運慶の長子湛慶は、上人没後も同寺で仏像、天像の制作にあたり、1237年まで十三重塔の梵天帝釈天毘沙門天などを手掛け、1244年の十三回忌に間にあわせたのだろう高山寺羅漢堂の比丘形文殊像を制作していた。

 

 道深法親王、法助が高山寺鳥獣戯画絵巻を持ち込んだのは、動物を愛した明恵上人への追善にふさわしいと考えたためと想像される。そして、十三回忌に関わった仏師湛慶が、絵巻の施入にも関係したと考えられる。

 明恵上人が愛玩しただろう仔犬像の作者である湛慶は、十三回忌の7年後の1251年、鳥獣戯画絵巻が秘蔵されていた(と思われる)宝殿のある蓮華王院三十三間堂で千手観音坐像を制作し、一部焼亡した千体の千手観音立像の補作にあたった。

 法助らの伝手があって、晩年の一大事業が蓮華王院で行われることになったのかもしれない。湛慶82歳のことだった。

 

 明恵上人のために仔犬像を作り、鳥獣戯画絵巻の施入にも縁があった湛慶は、あるいは西行法師の銀猫についても慶派の先代の仏師から伝え聞いていたのかもしれない。

 

猫の絵を通して鳥獣戯画を見直す

 猫を通して、鳥獣戯画を見てみることにした。

 

 高山寺に伝わる鳥獣戯画は20数種の動物が登場する絵巻4巻で、まんがの元祖といわれるように、動物(人間も)の動きが活き活きと描かれている。

 

 また鳥獣戯画には他に伝承された模本などがあり、高山寺本は切り取り、貼り付けなど大胆に編集されたことが分かっている。2009-2012年の修理作業で判明したことが多数あり、活発な意見が交わされているようだ。

 

 甲巻  兎、蛙、猿が賭弓、相撲などで遊ぶ

 乙巻  動物図鑑

 丙巻  人間が双六、闘犬などで遊ぶ後、猿と蛙が葉っぱの烏帽子姿で登場

 丁巻  人物のみで、滑稽な遊びに興じる

 

 猫が登場するのは2か所。

甲巻  烏帽子姿の猫が、ひっくり返った蛙を振り返って見る

丙巻  葉っぱの烏帽子を着けた猫が体を丸めて座っている

 

  



 高山寺本が編集される前の、鳥獣戯画を模写したとされる住吉模本5巻の第5巻にも猫が登場する。編集の際に、甲巻から切り離された断簡が住吉本の5巻にあたるとされている。

 烏帽子を被った猫。 

 

 3匹に共通するのは、虎猫であること、烏帽子着用していること(葉っぱの烏帽子も含め)。

 最新の興味深い説は、人物の絵巻(丙)が先に書かれ、その後に人物を動物に移し替えた絵巻(甲)が制作されたというものだ。

 甲巻は丙巻の後に、作られたというものだ。

 猫でみると、葉っぱの烏帽子猫が先で、立った猫はその後に描かれたことになる。

 

 座った猫の画像は平安末から鎌倉時代にかけて、「信貴山縁起絵巻」=写真=「沃懸地螺鈿毛抜形太刀」「童子曼荼羅」にも描かれていて、顔は「童子曼荼羅」の猫鬼に似ているのだそうだ(山本陽子「「鳥獣戯画の猫と童子曼荼羅」(明星大学全学共通研究紀要3号、2021年)。

 

 マンガのような立った猫は、どういう過程で誕生したのだろうか。甲巻には、猫と似た動作をしているキツネの絵があるのに気づいた。立って歩きながら視線を投げている姿。 

 

 住吉本の猫も、両肩を広げて立つ様子は、甲巻のキツネの姿とよく似ている。

 

 

 同じ作者であった可能性が高い。模本なので筆致はことなるが、住吉模本第5巻の原本は、切り取られる前は甲巻にあったことをうかがわせる。

 

 

酔胡従の割れた鼻について

 前に書き散らしたことの整理を始めることにした。まずは伎楽の面のこと。

 飛鳥時代伝来したとされる「伎楽」は、笑いの要素がたっぷり詰まった舞だった。十ほどある出し物には、酔っぱらいの模写、おむつ洗いのマネ、女人にちょっかいを出し、叩きのめされる男の様もあった。

 伎楽は絶えてしまったが、狂言の故野村万之丞氏は再興に向けて尽力した。「大田楽」と銘打った野外劇を見物したこともあって、同氏の試みに注目していたが、働き盛りで逝去してしまった。

 前に書いたのは、野村氏がブータンで出会った古い仮面劇「ベーチャム」のこと。その中の「ポレモレ」という物語を見て、伎楽の原型ではないかとひらめいたという話だ。正倉院東大寺法隆寺などに残る伎楽面には、鼻が欠けたり、修復されたものが多いのに気づき、同氏は呉女の面だと見ていた。

 「ポレモレ」はポ王、モ后の物語で、ポ王が戦いに出ている時、モ后は召使の婆にそそのかされて、浮気してしまう。戻った王にばれてしまい、后は鼻を斬り落とされてしまうのだった(鼻は婆羅門の治療で元通りになる)。 

 野村氏は、呉女の原型はこのモ后であり、だから呉女の面の鼻が欠けていると推定したのだった。(「マスクロード」02年、NHK出版)

  

 同書に興味を持って、私も正倉院に残された伎楽面を調べてみたところ、鼻が欠損している大半の面は、呉女ではなくて「酔胡従」の面らしいことが分かった。

 石田茂作「正倉院伎楽面の研究」(1955、美術出版社)で確認しただけで、最低5面あった。

  

 酔胡従というのは「酔胡王」に従う群衆役(4-8人位か)で、伎楽の最後の出し物「酔胡」に登場する。しかめっ面だったり、笑ったり、怒ったりと酒のみの生態を表した面をつけ、酔っぱらいの仕草でコミカルに舞ったとみられている。

 美術史家の野間清六氏などは、伎楽のフィナーレであることから、酔胡王をギリシャの酒神バッカスに例え、「聯想されるのは・・・バッカスの信者の扮装行列に、ディオニソスや陽物のシンボルに対する讃美者が合流し、この陽気な一団のコモスが、群衆に諧謔を投じながら練り歩く光景である」(「日本仮面史」昭和18年)と記し、劇の終わりの陽気な騒ぎだったと推測している。

 酔胡王、酔胡従の面の特徴、とりわけ尖った長い鼻はそんな経緯もあると思ったのだろうか。

 私は、同じように酔っぱらいが舞う舞楽「胡徳楽」を調べてみた。高麗楽の演目とされている。9人の酔っぱらい(胡童)が輪を作って舞うもので、輪に「勧盃」と「瓶子取」の演者が分け入って、胡童たちに酒を勧めるのだった。

 

 鼻が左右にぶらぶら動く

 

 胡徳楽の面は伎楽面と違って、鼻が尖っていない。長い鼻がくっついているのだ。面の鼻を覆うように長い別の鼻が付けられ、左右に動く工夫がされている。

 演目では、胡童たちの酔いが回ると鼻が動き出す、酔いのバロメータとして鼻を活用しているのだ。胡童の鼻が次々に動き出すが、1人だけ動かない。そんななか、瓶子取は酒を持ち出し、陰でコッソリ飲む。酔った瓶子取はこれまたヘンテコな踊りを始めるのだー。

 

 平安時代の「教訓抄」には、「伎楽」の「酔胡」の後に「武徳楽」の演目が記されている。残念ながら内容については触れていないが、「胡徳楽」と名称は似ており、あるいは、相似した酔っぱらいの舞だったと考えていいのではないか。

 伎楽の多くの酔胡従の鼻が欠損しているのは、極端に尖った長い鼻が壊れやすかったからであるのは間違いない(同様の鼻の波羅門は折れていないが)。

「胡徳楽」の酔っぱらいの面で鼻が動くように、伎楽でも高い鼻が舞台で別の役割を担っていたのかもしれない。そのために面の鼻の部分が壊れやすくなってしまったのかもしれない。

 野村氏のひらめきに触発されて、考えて来た結果はごくごく平凡なものに終わってしまった。

 

 

 

 

 

蘇鉄と信長猫

 滋賀県は10月に安土城天主台の周辺調査を開始した。20年がかりの計画という。

 安土城の大庭には蘇鉄が植えられていたと、歌舞伎、浄瑠璃「絵本太功記」(1799)に出てくるのを思い出した。織田信長は堺の寺院「妙国寺」の庭に植えられていた大蘇鉄が気に入り、強引に安土に移植したという逸話だ。

 城に植えられた蘇鉄は、夜な夜な声をあげている、という噂が立った。「妙国寺へ帰らん、帰せ~」と声を発しているというのだ。

 

 太功記の基になった「絵本太閤記」(1797)によると、信長は森蘭丸とともに噂を確認に庭に出た。たしかに声が聞こえる、これは妖怪に違いない。信長は翌朝300人を集めて蘇鉄の伐採を命じた。

 ところが、男たちが斧を入れようとすると、次々に倒れ血を吐いて悶絶死した。蘇鉄に慄いた信長はそのまま妙国寺に戻すことに決めたのだった。

 この逸話は、浮世絵師たちは恰好の題材となった。月岡芳年は「和漢百物語」(上図、部分)、歌川芳艶は「瓢軍談五十四場」で取りあげた。

 

 

 

 異国情緒が好まれたのか、蘇鉄は桃山時代から江戸時代にかけて流行したようだ。二条城二之丸庭園、本願寺大書院庭園にも植えられた。妙国寺の蘇鉄に目を付けた信長の逸話が事実なら、安土城が先鞭をつけたことになる。=上は、妙国寺蘇鉄之図部分(1750)。

 東海道・赤坂の宿にも蘇鉄が植えられ名物だったようで、歌川広重は「東海道五十三次 赤坂・旅舎招婦ノ図」で宿の庭の蘇鉄を描いている。

 

 私が魅かれるのは、金魚を狙う猫の後ろに、蘇鉄が配されている礒田湖龍斎(1735-1790)の美しい錦絵だ。シカゴ美術館に収蔵されている「Cat Pawing at Goldfish」。

 白地に黒のあでやかな斑紋の猫が右前脚を金魚鉢に突っ込み、無防備な金魚に狙いを定めている。

 

 

 湖龍斎は「見立絵」を始めた美人画の鈴木春信(1724-1770)に学んだ。春信は、源氏物語の情景を置き換えて、当世吉原の美人画を描いたり、絵に古典の見立てを仕掛けをした画家だった。絵を見る者に絵の美しさとともに、絵の背後にある古典の見立てを探らせる楽しみ方を開発したのだった。

 

 あるいは、湖龍斎はこの猫の絵でも、師匠から学んだ見立てを仕掛けているのではないか。

 蘇鉄をヒントにしてみる。猫の背景の蘇鉄の描き方は、妙国寺の蘇鉄の絵に似ている。金魚を狙う美しくも残忍な目をしたこの美しい猫は、湖龍斎が信長に見立てた猫ではなかったか。

  残酷な性格を持った信長が猫だったら、金魚を狙うこんな猫になるのではというわけだ。あるいは、猫には信長に似た残忍さを持っている、と湖龍斎は見ていたのか。

 私はこの猫を勝手に「織田猫」「信長猫」と呼んでいる。