短編なのに、最後まで読み通せない作品がある。子母澤寛(1892-1968)の「ジロの一生」(「愛猿記」=56年、文春新社)。あまりにけなげなジロという犬が悲しくて、涙で最後まで読み切れないのだ。
可愛がれていたジロだが、新米の飼犬アカに主人の愛情が移ってしまう。じっと耐えながらも、ジロは東京の家を離れ、主人との楽しかった思い出の海岸、鵠沼の別荘まで長い距離を独りで走って行く。場面を読んで、私はペットを同時に2匹は飼うまいと決心したのだった。
朝、細が見るワイドショーで、散歩から帰った犬が、別の飼犬を抱っこして可愛がる主人を見て、嫉妬して目で訴える動画が流された。かわいいといって、出演者たちが馬鹿笑いしていた(デリカシーのない人に見えた)。
猫の場合は、どうだろう。夏目漱石の門下で物理学者の寺田寅彦(吉村冬彦)は、大正10年に2匹の子猫を飼い始めた。
三毛のメス猫「三毛」と、
黄色で褐色の虎斑があるオス猫「玉」。
家族はみな、三毛を可愛がった。我儘で贅沢だが挙動に「典雅の風」があり、「最も猫らしい猫」と一身に愛情が注がれる。
「玉」は、「粗野で滑稽な相貌」「遅鈍で大食」と無視され、三毛の遊び相手の「道化師」としてのみ認められたのだった。
三毛は春寒になると外出し子猫を生む。7年間で30匹。初産では4匹を死産するが、子供たち(姉妹)が子猫を拾って来て、三毛に与える。三毛は子猫に乳を含ませながら元気を取り戻すのだった。二度目のお産では4匹が生まれた。皆貰われたが、寅彦は三毛の子供の記念として、4匹の寝姿を絵にしたのだった。
三毛、玉はともに7年生きて、昭和2年に亡くなった。
玉は春先になると、盛りがついて、家の中で尿をする。家族から「追放」の話が出、病院で去勢手術をすることになった。その後元気を失い、「庭の青草の上に長く冷たくなって居た」のを子供が発見した。病気で伏せていた寅彦は、その姿を見ず、他の猫と同様に庭の桃の木の下に埋葬させた。
三毛は、最後の産褥で弱り、胸に水が溜まる病気となり、病院でも治療法がないと宣告された。一日中動かず、行儀よく座って、人に呼ばれると眩しそうにその顔を見、返事をしようと鳴いても声が出なかったと、寅彦は書いている。夫人に看取られて三毛は静かに亡くなった。「有合せのうちで一番綺麗なチョコレートの空函を選んでそれに収め、庭の奥の楓樹の蔭に埋めて形ばかりの墓石をのせた」。埋葬も別待遇だった。
さらに、寅彦は通勤の車中で、三毛の追悼歌を4曲作り、伴奏をつけて楽譜にしたりした。やがて、三毛の孫猫を親戚から貰い受けて、三毛を偲んだ。
寅彦は、玉について「舞踊」と題して短い文章を書いている。
玉は風呂に入る寅彦についてきて、寅彦の脱衣の上に乗って、前脚で揉むように足踏みをするのが癖だったという。「裸体の主人を一心に見つめながら咽喉をゴロゴロ鳴らし、短い尻尾を立てて振動させ」たという。
三毛に劣らず、可愛いしぐさの猫ではなかったか、と私には愛おしく思えるのだ。
(絵は寺田寅彦作。表記はないが、上が三毛で、下が玉のように思える)