ハルビンで連行された愛犬家四迷

 知人宅の隣家の飼猫が、前から我が家の猫に似ているのが気になって居た。似ていることを話すと、わざわざ、抱いて連れて来てくれた。体は大きいし、年齢は大分上ではあるが、やはり目つき、表情がそっくり。なんだか、わが家の猫に睨みつけられているような気持ちになった。

 家に戻って、写真を比べると、似ていないわけではないが、そっくりというほどでもない。

 

 二葉亭四迷の猫については、その後何もわからない。犬に関しては、その後、犬をめぐる騒ぎに捲き込まれて、ロシア警察に拘留されたことが分かった。

 

 明治35年(1902)の7月2日付で、四迷は坪内逍遥(雄蔵)あての手紙に、詳細を記していた。

 小説家をやめ、官吏も、ロシア語教師もやめた四迷は、実業の世界に関心を強め、同年ハルビンウラジオストックで雑貨商を営む徳永商会の相談役の口を見つけ、旧満州に渡った。

 日露開戦の2年前のハルビンは、ロシア治安当局がピリピリしていたようだ。馬車から寺院を撮影した日本人が10日間拘留されたことなども、手紙に書かれている。

 

 犬の扱いについても、ロシアの警察が住民に布達していた。すべての飼犬は「口に輪を嵌め人に咬付くことの出来ぬやう」義務付け、口輪のない犬は「野犬と見做して打殺すべし」という乱暴なものだった。

 

 就職した徳永商会では、4、5匹犬を飼っていたが布達後、2匹だけ飼犬として鎖に繋ぎ、そのほかは追い出して野犬にしてしまった。

 そのなかの1匹が巡査を咬んで騒ぎを起こしたのに、四迷は出くわした。

 かまれた警官は、その犬を「打殺さんとて巡査三四名して追廻て」いたという。

 

 犬は、前に飼われていた店内に逃げこみ物蔭に潜んでいたが、巡査が追って来て、「店先へ引出し其処にて遂に斬棄申候」。犬は斬り捨てられたのだった。

 

 さらに、巡査らは、ここに逃げ込んだからには、店の飼犬に違いない、犬の死骸を持って出頭せよと申し付けた。

 

 四迷らは無視し続け、店を閉めると、巡査らは戸が破れんばかりに叩いて、店内にドヤドヤと入り込んだ。警官を締めだすとは何事か、全員逮捕と喚き、とくに目を着けられた四迷は、2、3度突き飛ばされ、外に連れ出され、一人だけ警察署に連行されたのだった。

 

 不潔な留置場で、シラミをつぶす男や、手製カルタに興じる男たちと共に、1時間ほど閉じ込められた後、身請けに来た日本人三人のおかげでなんとか釈放されることになったのだった。

 

 四迷の手紙には、四迷らが巡査たちを無視して対抗したさなか、店の支配人は裏口からこっそり出て、警察署に出向いていたことが記されている。穏便に済まそうとする支配人と、犬を殺されて逆上した四迷の怒りの対照的な行動が文章から推測できる。

 

 この後四迷は徳永商会を辞め、9月に北京に向かった。退職理由は、経営者の徳永の人物に失望したとされているが、私からすると、極端な犬好きの四迷であれば、この一件が大きく作用したように思われる。4、5匹居た飼犬のうち、2.3匹を野犬にしてしまったことにも憤っていたのではないか。

 

 後年の小説「平凡」に描かれる愛犬の描写は、内田魯庵のいうように行方不明になった四迷の飼犬マルがモデルであっても、不当な死の描写は、このハルビンで目撃した野良犬がもとになっているのではないか、と思えてくるのだ。

 

 この短いハルビン時代、四迷は市内に写真館を開業し諜報活動をしていた石光真清とも会っていたことが、石光の文章に記されているという(森銑三「明治人物閑話」

87年、中公文庫)。小説を志すと伝えた時、「くたばってしまえ」と父に言われたので「二葉亭四迷」の筆名にしたと、よく知られるエピソードを、四迷の口から石光は聞いたことを記している。