たくらだ猫とインドキョン

 猫の諺はたくさんあるが、「タクラダ猫ノ隣アリキ」という諺があるのは、知らなかった。安土桃山時代の頃の諺として書き留められていたのだった。

 



 藤井乙男編「諺語大辞典」(明治43年、有朋堂)を見ると、

タクラダ猫ノ隣アリキ

 タクラダは愚鈍なる者をいふ。のら猫の遊びあるきて、用に立たぬをいふ。【北條氏直時分諺留】

 

 小田原城主北條氏直(1562-1591)の時代に広まっていた諺ということだ。藤井氏は、昭和4年「諺の研究」(更生社)を上梓し、「北條氏直時代諺留」の全文を紹介した。諺語辞典を編纂しているとき、東大で総紙数6枚、半紙の写本を探し当てたと書いている。多賀常政という蒐書家が安永2年に堀口率貞の蔵本を書写したものを、藤〇(不明)が寛政2年に写しとったものだった。多賀によると、元本は荻生徂徠の父の蓬庵の自筆だったとしている。

「やす物の銭うしない」「能ある鷹は爪かくす」などは、この頃から言われていたことが分かり、「窮鼠反て猫をかむ」「年よれば犬もあなどる」など犬や猫の諺もあった。

 うちの馬鹿猫は、わが家の鼠を取らずに隣家をウロウロ歩いている、というのが「タクラダ猫ノ隣アリキ」らしい。それが「役立たず」を意味するようになったようだ。

 

 タクラダ猫のタクラダという言葉が気になって新村出の「広辞苑」を見ると、

たくらだ 痴 田蔵田

「(麝香鹿に似た獣で、人が狩る時、飛び出して殺されるという)自分に関係のないことで愚かにも死ぬ者。ばかもの。うつけもの」とあった。

 タクラダは、人間が高級な香料の麝香を得るために、南アジアの森でジャコウジカを追うとき、自分が狩られると勘違いして慌てて飛び出して殺されてしまう可哀そうな動物のことだった。

 

 タクラダについて、他を捜したが詳しい記述はない。

 インドには「Thakurta」という姓がある。THAは、サともタともとれるから、タクラタに似ている。この姓をもつ著名な女優兼歌手のRuma Guha Thakurta という人がいた。おそらくタクラダは、インドの言葉なのだろう。

 

 ジャコウジカに似た動物は、インドキョン、ホッグジカ、バラシンガジカ、ターミンジカ、サンバー、アクシスジカ、シフゾウなどの鹿が上げられる。

 タクラダに似た名はない。強いてあげると、タ・ク・ラ・ダの「ク・ラ」が共通するインドキョンだ。

ヒンディ語 KUKUR 

カンナダ語 kan-kuri

マラティー語 bekra、bekur

テルグ語  kuka gori

 頭と尾にT音が付くと、少しだけだが似て来る。

 インドキョンは大きな声で吠えるので、ホエジカと言われるという。とび出して大声をあげれば撃たれてしまう。新村出博士はどこから、情報を仕入れたのだろう。

 

 インドキョンが、日本で長い間「タクラダ」(愚か者)扱いされてきたとしたら、ごめんなさい、とあやまるしかない。

 いまでも、東北地方日本海側、北海道では、「たくらんけ」という言葉が生きているという。「タクラダ」から生まれたらしい。「アホか」という意味である。

 

 タクラダ猫

 

 

 

 

殿上人をギャフンをいわせた鬼貫伝

 大伴大江丸が残した上島鬼貫の逸話は、俳諧師夏目成美の「伊丹鬼貫伝」に記されている。

 伊丹の造酒家の三男鬼貫(1661-1738)は、実家が公家の近衛家の領地だったこともあり、京都の近衛家に出入りすることがあったのだという。

 当時近衛家は近衛基煕(1648-1722)という和歌、絵画、書に秀でた人物がいた。近衛家には公家たちが集まって、歌の会などを開くことが多かったようだ。

 

 

「鬼貫伝」によると、≪近衛の御殿に殿上人らが集まって会を開いていた時、お勝手に三郎兵衛(鬼貫)が訪ねたことがあった。客人たちは「三郎兵衛は俳諧体の句を作っている男だ、召し出して句を作らせよう」と言い出した。呼ばれた三郎兵衛は皆の前に出ると、畏まって平伏した。

 近衛の殿は「俳諧の句を申せ、題などを出そうか」と語り掛けると、鬼貫は頭をあげて、座敷を見巡らして、床の間にある土佐派の誰かが描いた小町の掛け絵に目を止めた。

「あの掛物を寄越していただければ、賛を書いて奉りたい」というと、皆笑った。やがて差し出されると、三郎兵衛は硯を求め、少しもためらわず、筆をたぷたぷと墨で染め、小町の頭の辺りに、「あちらむけ」と五文字を書き付けた。皆は覗き込んで見守った。

 三郎兵衛は思案して再び静かに筆を執ると、「うしろもゆかし花の色」と書き付け、畏まった様子で後ずさりした。

 一同この様子をめで興じ、今日の会はこの三郎兵衛にやり尽くされたので、もはや興なしと散会したのだった。≫

 成美は「是は浪花の大江丸がものがたりなり」と記している。

 

 近衛殿や公家たちが、冷やかし半分で俳諧師鬼貫を試したところ、鬼貫は土佐派の掛け絵に目を付け、見事な書で「あちらむけうしろもゆかし花の色」と書き入れ、俳諧師の矜持を見せつけたという話の体裁になっている。

 

 少し検証してみた。

1)伊丹が近衛家の領地だったのは事実か。

 伊丹市のHPで確認できた。「江戸時代、伊丹郷町の大半は近衞家領であり、酒造家等から選ばれた惣宿老たちが近衞家の指示を仰ぎながら伊丹町政を運営する「会所」がありました」と記している。酒造家の上島家も近衛家の代官のもとで町政を司った惣宿老であった可能性はある。

2)近衛家の屋敷はどこにあったか。

 京都・今出川邸で、鬼貫の時代の建物は天明の火災で焼失した。当時の図面が残っていて、門は北面して大玄関に向かう表御台所門、朝廷の使者が通る東面の四脚御門の2つ。屋敷は東庭に面して南から北へ寝殿、大書院、白木書院、御居間と並んでいる。お勝手は西側で、表御台所門から塀に沿って左に進んで「御台所」「御清所」に至ったのだろう。公家の会は御居間で開かれていたとすると、勝手口の南西から廊下を左右しながら広い邸を北東隅まで案内されたと推測できる。

3)土佐派の某の絵とはなにか。

 土佐派は長らく衰退して狩野派の陰に隠れていたが、江戸初めに土佐光則、光起父子が京に戻り、後水尾天皇が光起をひいきにしたことから、1654年に85年ぶりの朝廷の絵所領職を取り戻した。近衛基煕も後水尾天皇の文化サークルの一員だったので、ここに登場する小町の絵は、土佐光起の作だったかもしれない。光起は掛け軸形式の立ち姿の美人絵(一人立ち美人図)も手掛けたので矛盾はない。土佐派といえば、金地濃彩の作品で知られ、そこに筆で賛を書くというのは、よくよく度胸と実力があったことを伺わせる。

 

 和歌と俳諧といえば、大江丸が活躍していた寛政2年(1790)に五摂家二条家が始めた「二条家俳諧」がある。名古屋の俳諧師加藤暁台が二条治孝と親しくなり口説き落としたもので、和歌の伝統で知られる二条家が、大衆文芸の俳諧師に、宗匠の免状を与える前代未聞の儀式を始めたものだ。

 芭蕉を顕彰する「正風中興」を旗印にしたため、芭蕉堂の高桑闌更ら多くの俳諧師が参加したが、宗匠の烏帽子姿などが京で揶揄され、また免許を得るために暁台、月居が二条家に御賄金各三十両を支払っていた事実も分かり反発も高まった。ついには月居が俳諧師から軍資金を徴収して二条家大坂城乗っ取りを企てるとの荒唐無稽の捨文事件が起こり、ニセの通報に幕府も取り調べを開始する騒ぎとなった。

 

 二条家俳諧に距離を置いていた大江丸だったが、捨文事件では35人の俳諧師とともに嫌疑が掛けられた。同じ五摂家近衛家を相手に、堂々と渡り合った元禄時代俳諧師「鬼貫」の逸話を大江丸が掘り出し、二条家俳諧にあてつけたかったのかと想像してみた。

 

 

 

 

 

猫の目時計を句にした鬼貫

 早朝散歩で出会った猫は、すでに瞳は針のように細く、はや正午を告げていた。ノルウエーの猫の血をひいているという。

 

 

 さて、猫の目が時を告げるという「猫の目時計」に関して、江戸時代の記述で新たな例を見つけた。文化11年(1814)、雑学家の石塚豊芥子(ほうかいし)が書き残した「猫盡し五大力」という戯文の出だし。(豊芥子日記)

猫撫声のぶちまでも、毛深き眉をもの思ひ、仮令(たとえ)へっつい(竃)でばばするとても、針と玉子の時をしる・・・

≪猫なで声のブチ猫まで、毛深い眉をひそめて何事か物を思い、へっついでババをしていても、針と玉子の時刻が分かっている。・・・≫

「針と玉子の時」とは、猫の目時計の「針と玉子」のことだろう。江戸時代作とみられる猫の目時計の歌と符合している。

 

 六つ円く、五七はに四つ八つは柿のたねなり、九つは

 

 猫の目が一日、円→卵→柿の種→針→柿の種→卵→円とくるくると変わることをもとに作られたもので、針は九つ(正午)、卵は五つ(午前8時)七つ(午後4時)にあたる。

 猫の目時計を初めて俳句にしたのは上島鬼貫。伊丹生まれの俳諧師で、元禄12年(1699)作の「猫の目のまだ昼過ぬ春日かな」。

 猫の目がまだ針になっていない春の昼前を句にしたのだった。

 中国版の猫の目時計を記した蘇東坡「物類相感志」が元禄3年(1690)に日本で刊行されており、鬼貫はそれを読んだとみられる。

 

 鬼貫は興味深い俳諧師で、西行と頼朝の間で「銀の猫」のやり取りがあったと「吾妻鑑」に記された文治2年(1186)、鎌倉での2人の別の逸話を書き残している。「ひとりごと」の中の文章だ。

 

鎌倉の右大将(頼朝)、西行上人に弓馬のみちをたづね給ひし時、馬は大江の千里が、月みればの歌のすがたにて、乗たまへと答られければ、ほと拍子を心得たまひて、即座に馬の乗かたをさとり給ひけるとぞ

 

 頼朝は弓馬の作法について西行に訊ねたが、乗馬については、大江千里の歌(月みれば)を参考にやってごらんなさいと、西行が教示したところ、頼朝はすぐコツをつかんだというのだ。「月みれば―」の歌とは-

 

 月みればちぢ(千々)にものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど

 

 月みればで空を眺めるような動作をするのか、と私は想像してしまったが、どうやら歌の意味は関係ないようだ。頼朝は「ほど拍子を心得て」悟ったと鬼貫は書いている。程拍子とは「拍子の緩急伸縮の程あい」のことで、おそらくこの歌を口ずさみながら馬に乗ったら、うまくいったというのだろう。

俳諧にも句のほと拍子は上手のうへのしわざなるべし」と鬼貫は作句でも「ほと拍子」の極意というものがあると言って締めている。

 

 それにしても、鬼貫はどこからこの逸話を探し出したのだろう。頼朝には大江広元という側近がいた。大江と言えば、百人一首で親しまれた大江千里。いつのまにか2人の大江が混淆し、西行が頼朝に流鏑馬などの故実を伝えた話に、大江千里の歌も取り込まれたのだろうか。室町時代にでも創作されたか。

 

 鬼貫にはこんな句がある。「そよりともせいで秋たつことかいの」

「程拍子」が感じられなくもない。

 後世の大伴大江丸の句にも似ると思ったところ、大江丸は鬼貫の逸話を夏目成美に語り、成美が書き残しているのを知った。それもちょっと眉唾のような話なのだがー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アオスジアゲハとタヌキチョウ

 猛暑のせいか、蝶々を見かけない。蝉の鳴き声も例年の蝉しぐれの迫力がない。

 空梅雨と猛暑で立ち枯れた紫陽花が象徴するように、花がやられてしまったので、昆虫に影響が出ているのだろうか。家の木によく来るアオスジアゲハも今年は姿を見せない。

 お盆が明けて事務所に出ると、横浜郊外に住む職員は裏山のタヌキが道端で倒れていた、こんなことは初めてなので、恐らく熱中症ではないかと思う、と話していた。

 人間ばかりか、生けるものは多分に猛暑で弱っているのだ。

 

 夏が始まる前に、夏の課題として「タヌキテウ」(たぬきちょう)の命名のわけを解きたいと思っていた。

 江戸時代の末期、尾張藩博物学者小塩(おしお)五郎(1830-1894)の著した「蝶譜」に、アオスジアゲハが掲載されていて、「タヌキテウ」と呼び名が書かれていたのが、ずっと気になっていたのだ。

 

 なぜ、たぬき蝶なのか。アオスジアゲハとたぬきの共通項など詮索してみたが、分からない。

「バリバリノ木ニ生ス」と添え書きがある。バリバリノ木はクスノキ科なので、確かにアオスジアゲハの幼虫が食べるクスノキの葉を言い当てている(ほかにタブノキなど)。たぬき蝶にも根拠があるのだろうと推測された。

 

 鮮やかな青色の羽根模様と、茶色のタヌキが結びつかない。タヌキ顔、タヌキ親爺、タヌキうどん、タヌキ寝入り。さらに、たぬきには、狸ばかりか、手貫(籠手のこと)もある。武具の手貫にひょっとして青い筋の模様があるのか、探したが見つからない。

 

 蝶にタヌキの名が付いたものはない。しかし「タスキ」ならあることが分かった。タスキアゲハ。中南米に生息するアゲハチョウ科で、黒の地に黄色の2条の線がある。上方の太い線と下方の細い線を襷に見立てたのだろう、和名はタスキアゲハとなった(英名はアゲハチョウの王様)。

 

 

 アオスジアゲハは青い筋は1本きりだが、襷と見えないこともない。日本に生息するアゲハチョウ科の他の蝶には、襷といえるほどの線の模様はない。「蝶譜」のアオスジアゲハは「タヌキチョウ」でなくて「タスキチョウ」なのか。

 そうであるなら小塩五郎はアオスジアゲハの模様を「タスキ」に見立てて命名した、あるいは尾張周辺ではすでにこういう呼び方をしていたことになる。全く全国的に普及しなかったものの、興味深いことだ。

 

 しかし博物学者たるものが、うかつにも間違えて表記したりするものだろうか。

 アオスジアゲハが姿を隠しタヌキも倒れる今年のような、江戸時代の猛暑激しい一日、小塩五郎が筆を誤った、と強引に解釈して夏の課題を終えることにした。

 

 

日除けと馬の毛製「おいかけ」

 猛暑が続いているので、事務所への通勤は帽子が欠かせないようになった。それでも、首のうしろ、左右の耳にじりじりと日が当たる。

 王朝時代の武官は冠とともに、冠の左右に「おいかけ(緌)」という扇のようなものを着けていた。軽いものだったようだ。あれは日除けではなかったか、と炎昼にひらめいたので、調べてみると。

 

 

 江戸時代の京の有職故実家速水常房(1700-1769)は、平安時代中期の辞書「和名抄」に「緌 又云於以加計」と記されていることから、於以加計(オイカケ)は「オホヒカクルといふ事也」(禁中名目抄の註)と、顔の側面を覆い隠すものと解釈していた。日除け説もまんざらではなさそうな気がしてきた。

 しかし、伊勢流有職故実家の伊勢貞丈(1718-1784)が反論。「於比加計(オヒカケ)」であるならばオホヒカクルはあり得るが、「於以加計(オイカケ)」なので、「置い懸け」としか解釈できないとした。置いて緒に懸けたもの、となると日除け説は遠のいてしまう。

 

 ひらめき型の歴史学者喜田貞吉(1871-1931)は、「おいかけ」は隼人の「耳形蔓(みみがたかずら)」と同類ではないかと、一文を残している。(「歴史地理」大正6年2号)

 耳形蔓の絵が残っているわけではなく、「延喜式」に記されているだけなのだが、やはり面白いひらめきのような気がする。

「おいかけ」は、「馬の尾の毛で扇形に作ったものを掛緒でつける」(大辞泉小学館)と現代の辞書は記していた。馬の尻尾製だったのだ。馬の尾の毛といえばバイオリンの弓が同じなので少し身近に想像できる。

 さて、隼人といえば、色鮮やかな渦巻きデザインの盾が思い起こされるが、この盾の上部が馬の毛で覆われていたことが知られている。

 隼人は警護の武人であり、馬の毛という共通項を考えると、喜田貞吉の隼人の耳形蔓説はまんざらではないのだ。

 

 盾、「おいかけ」に用いられた馬の毛は辟邪、魔除けとして考えられたのだろうか。

『今昔物語』巻26の13話に長いおいかけをつけた武人が出てくる。

 めずらしい「おいかけ」なので男は「上緌の主」と呼ばれたという。ある時、馬に乗って京都の西八条と京極の間の畑に差し掛かると、夕立にあった。粗末な一軒家で雨宿りをすると、媼がひとり暮らしていた。長者がかつて住んでいた家というが、いまは周辺に人家もなくさびれていた。

 男が屋内で石だと思って腰かけた所、感触が違った。手でたたくと窪む。なんと銀の塊だった。男は自分の衣を媼に渡し、かわりに銀を持ち出し、人を呼び車に乗せて家に戻った。上緌の主は、この銀を元手に富を増やし、やがて長者になったという。

 

 おいかけは、日よけにも役立ちそうなうえ、金運を運ぶ縁起物なのかもしれない。。

 

 

 

 

フクロウのアイスクリーム店

梟をねこと(ど)りといへるは、かれか(が)頭の、猫に似たるよりいふ、と人みなおもへり

 江戸時代の国学者中島廣足の文章を前に記した。廣足はフクロウをネコドリと西国で呼ばれていることをあげつつも、名の由来はフクロウの頭が猫に似ているからではない、と主張したのだが、私は江戸時代には一般的にフクロウの頭が猫に似ていると思われていたことに面白みを感じた。

 

 先ごろ、昭和8年発行の藤沢衛彦「鳥の生活と談叢」(啓松堂)を読んだところ、フクロウの章があり「最近(1928年)米国ロスアンゼルスの、さるアイスクリームパーラーが、梟の家を号して、“Hoot Hoot I scream”と掲げた看板が、はしなくも世界の評判を買ふ程有名になった」と記してあるのを見つけた。

 LAのアイスクリーム店が世界で(当然日本でも)話題になったというのだ。アイスクリームとアイ・スクリーム(私は叫ぶ)の語呂合わせが面白がられたこともあると記している。しかし、昭和の初めに日本で話題になった理由が、語呂合わせだというのはピントこなかった。店の画像を探した。

 

 語呂合わせでなく、フクロウの形をした店舗が面白がられたのだと気が付いた。

「Hoot Owl Cafe」という店名で、入口に「HOOT HOOT / I SCREAM」の看板が掛けられている。

 

 HOOT HOOTは、梟の「ホー、ホー」という鳴き声のこと。フクロウが「ホーホーと私は大声で鳴く(アイスクリームを食べたいと)」といったニュアンスだろうか。

 調べてみると、少し前の1925年ごろからこんな歌が「ノベルティ ソング(コミカル、ユーモラスな歌)」として米国各地で歌われていたのだった。1927年に、ハワード・ジョンソンら3人の作者で楽曲登録され、ジャズのスタンダートにもなっていく。

「I scream,you scream、we all scream for icecream」

≪私は叫ぶ、あなたも叫ぶ、私たちみんな叫ぶアイスクリームが欲しいと≫

 

 LAのアイスクリーム店は、この歌を取り込み、かつフクロウを店舗のキャラクターに起用したのがよかったようだ。

 藤沢氏は、米英仏の伝説によると、「ホウーホウー」というフクロウの鳴き声は、「自分は寒い」という意味なのだという。昔鳥類は火のない暮らしをしていたが、ミソサザイが火を取りに天に昇って行き、自らの羽を焦がしながら火を地上にもたらした。鳥たちはミソサザイに感謝して羽を一本ずつ捧げたが、冬の寒さに耐えられないフクロウは拒否した。そのため、今ではフクロウは年柄年中寒がり、独りぼっちで暮らしているのだと。

 寒がりのフクロウとアイスクリームの冷たさとがうまく響き合ったということらしい。

 私はそれより、この梟の店を見ながら、梟の頭と猫はやはり似ているなあと思ったのだ。

 

(78年ヒット曲、榊原郁恵の「夏のお嬢さん」にも、アイスクリーム、ユースクリームの一節が出てくるが、チュウ、チュウチュチュと、アイスを食べる擬音のような歌詞も加え、本歌取りとして成功した楽曲だと思った。作詞笠間ジュン)

 

 

 

「猫頭巾」と「猫をかぶる」

 猫頭巾という頭巾があるのを知った。

 江戸時代に火消しが火事場で被った丈夫な頭巾だとのことだった。火の粉や熱風を防ぐためのものらしい。しかしー。

 

 江戸時代より100年以上前の1499年に編集された俳諧連歌撰集「竹馬狂吟集」に出てくる「猫頭巾」は火消しの猫頭巾とは違っていた。(俳諧連歌は、前句の七七の題に、五七五の付句で答えるもの)

 

前句

 座禅の人のねずみをぞ追ふ

付句

 僧堂にかづきつれたる猫頭巾

 

 《心頭滅却して座禅しているはずの僧侶が、鼠を追いかけているよ。/

 僧堂にも被ったままやって来る猫頭巾の連中だからだろうよ》

 

 新潮日本古典集成「竹馬狂吟集」の註には「猫頭巾は僧兵の袈裟頭巾の変形と思われ、目だけ出してかぶる頭巾」とある。

 袈裟頭巾とはー。「法師武者の戦場に兜の上に蒙る頭巾」(俚言集覧)。

 

 猫頭巾もまた僧兵(法師武者)が被ったものなのだろう。僧堂でねずみを追う猫頭巾はそんな連中ということになる。

 

 

 

 新潮日本古典集成には、猫頭巾として1351年作の「慕帰絵詞」巻6に描かれた頭巾を紹介していた。

 絵のなかで、騎乗の人物がかぶっている頭巾がそれで、短いつばのようなものがあり、左手の白い頭巾姿に比べてみると特徴が分かる。

 

 目だけ出して肩まで頭全体をすっぽりと覆うところが、江戸時代の火消しの防火帽に似ているので、猫頭巾の名称が継承されたのだろうか。但し、どうしてこの頭巾に猫の名がついたのかは分からない。

 

 話は変わるが、私はずっと「猫をかぶる」という諺の由来が納得できなかった。意味は「本性を隠しておとなしそうに見せること」。猫は一見おとなしそうに見えるからと解釈されているようだ。それでは、猫の本性は化け猫なのだろうか。

 倭訓栞に「猫根性」という言葉が出ていて、「諺に猫根性といふは人の心の貪欲を匿し外に露ハさぬ者と云」とある。「猫根性」から「猫をかぶる」が生まれたのだろうが、いっそのこと、猫が猫頭巾なら分かり易い。猫頭巾をかぶって軍装のかぶとを隠していることから、猫をかぶるー。僧の姿をして実は荒くれものであるのを猫頭巾が隠している。

 

 袈裟頭巾と猫頭巾の関連がいまひとつはっきりしないが、猫頭巾のことがもっと分かってくると面白い。