『以文会筆記抄』を読みすすめる。
京都の以文会には、江戸時代の画家・司馬江漢も入洛の際に出席している。
江戸・本所羅漢寺の阿蘭陀油絵について語ったのが、春暁でなく江漢なら面白いのだが、 江漢が京都に滞在したのは、文化9年(1812)の8-10月。11月21日に京を立ち、江戸に戻ったので、阿蘭陀油絵の話が出た文化10年(1813)には、京都にはいなかった。
江漢が出席したのは文化9年の京都滞在中。65歳だった(本人は9歳加算していたから自称74歳)。
会では、3つのことを話した。
1)不思議な石造物 2)出土した石器・勾玉 3)隕石
1)では、「薩州霧島山に逆鋒ありと、吾国神代以前の事伝記なし」と霧島の逆鉾をとりあげている。53年後に坂本龍馬が新婚旅行で霧島を尋ね、逆鉾を抜いて差しなおした逸話がある。半世紀後の幕末には、志士の間でも有名になっていたのだろう。
そして「因州に熊権現と云うあり、皆列石を以って畳む、その数無数也是れも人工なり」と、熊権現を取り上げた。
熊権現については、わからない。岡山の熊山遺跡かと思ったが、因州(鳥取)でない。
2)の石器・勾玉は省略
3)の隕石の話は、江戸・芝森元町に落下したもので、
「径1尺もありて、魚目腐木の如く白光ありて手をつくればあつし、盥を以ておろし見るに良光りて後やむ」と聞いた話を記している。
「寺に納めて妙見に祭る、予之を見たり、天にあっては流星是れなり、是れ星にあらず」
江漢は、寺の妙見堂あたりに安置してあった隕石を見に行ったことになる。妙見信仰といえば、日蓮宗寺院。
寺は移転しており、その際に隕石は消失してしまったのだろうか。