1725年、謎のオランダ油絵

 江戸時代・文化年間。京都の以文会のメンバーには、高倉六角南に住む松山藩留守居役の金子風竹、洛西西院村の近藤式部、麩屋町六角北の小島濤山などがいた。
 
 みな好事家なりの得意ジャンルがあり、画家の話となれば、メンバーでは、挿絵や伽藍図、俯瞰図などを手がけた画家であり小説家、速水春暁の独壇場だった、と推測される。
 
「以文会筆記抄」では文化十年の第七冊目に、オランダ油絵のことが出てくる。これも春暁が書き残したと思う。
 
「凹凸画の事」 。≪私は先年江戸に遊びに行き、本所羅漢寺の秘蔵「阿蘭陀油絵」を見たが、花瓶に百花を入る構図であった。画の中の瓶の中に、サイン(文)があり、「大西洋一千七百二十五年」(西暦1725年)、「微兒列摸方魯伊甖」(うゐるれむ ふあん ろいえん)という者が描いた画である。今まで89年たつが、彩色は失われず、鮮麗で愛すべきものだ。「是れ支那の人」(彼は清の人だ)。≫
 
 この絵こそ、今、見事な2作が残る「ファン・ロイエン筆花鳥画模写」の失われた原画だった。模写の一は、秋田県立近代美術館にある、江戸時代の洋画家石川大浪の模写。寛政8年(1796年)の模写で、大槻玄沢が賛を入れている。
 
 
 模写の二は、石川大浪のものを再模写したとされる谷文晁(1763~1841)の作品。神戸市立博物館にある。 
 
  原画は、徳川吉宗がオランダ商館にあったものを、江戸の本所羅漢寺に下賜し、長く展示されたらしい。評判を呼んだから、京都から、速水春暁が見物に来たのだろう。
 
 不思議なのは、彼が画家を「支那の人」としるしていることだ。18世紀の初め、オランダ人画家で willem van royen は2人いた。
 1) willem frederiksz van royen  (1645-1723)  静物花鳥画を得意とし、ベルリンアカデミーの創設者の一人でもあった。
 2) willem van royen (1672-1742) 鳥の絵ばかり描いた。
 
 画風、画題では、フレデリックというミドルネームがある1)の画家としか考えられない。
 
  しかし、困った事に、画家1)は、1723年に死没していて、1725年に画は描けない。画家2)の作品なのか。それも考えづらい。
 
 となると、春暁の残した「支那の人」の一文が気になってくる。この原画の絵もまた、清の画家の、模写であったと。1725年とサインした謎は残るが、ローエンの絵は、最低3度模写され、2度目と3度目が今に残っている、という推理だ。「以文会筆記抄」は、想像をかきたててくれる。
 
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  京・嵐山の先人に教わったこと。紅葉を見るなら、未明か夕暮に限ると。