近所の寺(真言宗豊山派)は、除夜の鐘を参詣客に自由に撞かせてくれたので、長男を連れて出かけたものだ。力むと、大きな音も、いい音もでないことが分かった。近所に住民がふえてからは、早々と長い列ができ、撞くのはやめにした。
鐘というものは、除夜でなくとも撞きたくなるのはどうしてだろう。
ある夕べ、畑仕事から戻ってくる近所の人が、寺にやってきて、「この頃鐘がおかしな時間に鳴るが、どうしたずら」。
鐘撞きは、正午や夕方に撞くように変えたが、そのうちに飽きてしまって撞かなくなった。
「以文会筆記抄」には、文化10年2-3月の第6冊に、鐘のことがでている。
≪釣鐘は古くからその場所に伝わって名高いものに、京都高雄(神護寺)の三絶の鐘がある。その外は移動したものが多い。とりわけ有名な法金剛院の黄鐘調の鐘は、今は妙心寺にある。また太秦の広隆寺の鐘は西本願寺にある。比叡山西塔の宝幢院の鐘は北岩倉の大雲寺にある・・≫
江戸時代の京都の文人の記した上記の鐘を調べてみると、
神護寺の三絶の鐘は、国宝。現在も三名鐘に入る。貞観17年(875)鋳造。楷書で245字の銘がある。序・橘広相、銘・菅原是善、書・藤原敏行の三名家によるため、三絶の鐘とよぶ。ひびが入って今は鐘はつけない。
銘文は以下ー。
法金剛院(花園)の鐘は、浄金剛院(嵯峨、今は消滅)の誤りだった。黄鐘(おうしき)調の鐘というのは、音の高さが、黄鐘(A音)を発するかららしい。クラシック音楽でも、オーケストラは演奏前にA音で調音するし、雅楽でもA音は重要な音らしい。
妙心寺に移されたこの鐘は、大変いい音なので、NHKの行く年くる年でしばしば登場したが、いまは引退して、お堂に納まっているという。
大峰山は、紀伊半島の修験の山で知られる。絶壁の鐘掛岩があり、鐘掛の鐘はここに掛けてあったという。山上までどうやって静岡から運んだものか。944年=天慶8年の銘のあるこの鐘を、山伏たちが運び上げたのだろうが、以文会の会員たちも不思議に思ったのだろう。現在は大峰山寺の本堂に置かれている(重文)。
実は、鐘はもっと古く造られていて、銘は追刻されたらしい。銘にある「遠江国 長福寺」(掛川市)では、熱心に大峰山に参詣した山伏が亡くなった後、長福寺鐘楼から鐘が空を飛んでゆき、鐘掛岩にかかったという伝承が残っている。
≪東大寺の大鐘は、竜頭の上に文字がある≫
実際存在するのだった。重たい大鐘は、竜頭が壊れて落下することが度々あった。文字は、延応元年(1239年)に竜頭を修理したときの、修理銘だった。
野寺の梵鐘は、残念ながら無銘だった。ただし、竜頭は今でも白い布で覆われ、特別に信仰されているという。一条天皇筆の額は「龍宮鐘殿」でなく「龍寿鐘殿」の間違いらしい。
京都の文人たちが集めた情報は、浄金剛院ー法金剛院、龍寿鐘殿ー龍宮鐘殿の違いはあっても、いかにも好奇心にあふれた指摘があって、鐘ひとつとっても、感心することが多い。
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