モンゴルの寺院で、音を鳴らしていた軒の風鐸の名を同行者に聞かれたとき、「ふうたく」と答えられたのはどうしてだろうかと、前に思い出を書いた時思ったが、それは、一篇の詩の記憶からだった。
「甃のうへ」(いしのうえ)という三好達治(1900-1964)の詩。
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
この詩のおかげで、風鐸をいう言葉を覚えていたのだった。
最近あらためてこの詩を読んでみて、風鐸でなく、み寺の甍みどりにうるおひ
という一節に関心を持った。
みどりのいらか。
さくらの花が散るころ、寺院の屋根が緑ということは、周辺の木々を反映したものではあるまい。「瑠璃瓦」=緑釉瓦の屋根を詩にしたのではないか、とふと思ったのだ。
この詩は、室生犀星の「春の寺」に触発されて作ったものらしいが、天平のころの寺院の貴女たちをイメージしているように思われる。
本人は、後年「 みてらのいらかみどりにうるおひ … と ただ その音 韻 を舌頭 に味つ てみ るだ けで も、 十分 こ とは足 りるので あ る」と語り、解釈上いらぬ詮索は無用としているが、少し詮索してみたくなる。
この詩は昭和5年に上梓した詩集「測量船」に収録されている。そのころまでに、奈良で緑釉瓦が出土して、平城宮や大寺院の一部で、緑の瓦が用いられたことが分かっていた。
寺院では東大寺の北側の竜松院付近、唐招提寺の境内。とくに、唐招提寺では、大正4年、同13年、昭和3年と度々、講堂裏で発見されている。奈良の都の大寺院の屋根に、緑のものがあったという知識。
詩にある、緑うるおう甍のイメージは、三好が奈良旅行で得たものではなかったか。奈良公園の思い出を後年、随筆の「柘榴の花」で触れている。
「いつぞやの暮春の頃、奈良の春日の森を友人と共に歩きながらふと拾つた一片の目白の羽毛の、その根方の方は白く、そこから次第に微妙にぼかしになつて、ほのかな緑色が尖端の方ではそれこそ見事な濃緑色に染上げられてゐる、その自然の染色の微妙極まる手際に、ほとんどその日一日心を奪はれてゐた。今では十余年以前の経験を唯今も思ひ出してゐるのである。」
詩人は、緑に、春日野で拾った小鳥の羽の緑のグラデーションに、心を奪われている。色彩感覚に鋭敏だった詩人は、桜散るなか、寺の甍をそっとみどり色にそめたのだろう。
唐招提寺や東大寺の緑釉瓦の知識もあったためではなかったかと、今回改めて考えてみた。「風鐸」の知識もあった詩人なのだから。