パンテオン会の「河岸きょろ」

 随分前、歴史学者の三宅米吉の足跡を追って、米吉が22歳当時住んでいた小石川の伝通院境内へ貞照庵を探しに家族で尋ねたことがある。

 貞照庵は跡形もなかった。

 伝通院の墓地をめぐると、紫煙がもうもうと立ち上っている墓が2つあり、一つは幕末の志士清河八郎、もう一つは、米吉より早く貞照庵で起居していた国粋主義者杉浦正剛のものだった。2人には今も墓参りする信奉者が多いのだった。杉浦はこの貞照庵に集った仲間たちとともに、雑誌「日本人」、新聞「日本」発行の構想を育くんでいったのだった。

 米吉は、千葉師範学校兼千葉中学の教師をしたのち、東京に転任することになって、この貞照庵に住むことになった。独身だった米吉は、千葉中学の教え子3人とともに起居した。明治14年のことだ。

 教え子は、石井菊次郎(のち外交官、石井・ランシング協定の石井)

      木内重四郎(のち京都府知事)

 そして、東洋史学者で東洋文庫を設立に尽力した白鳥庫吉だった。

 

 口数が少なく、友人の尾崎行雄と一日下宿で過ごしても、まったく口をきかないことがあった米吉が、教え子とどんな共同生活を送ったのか、想像がつかない。

 

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 明治の歴史学者の若き時代の暮らしぶりを知りたいのだが、米吉には10年後の米欧留学時代の記述も残っていない。

   教え子の白鳥庫吉はそのまた10年後、ドイツ、ロシア、フランスなど回った。白鳥のパリ時代の様子は、「パリ1900年・日本人留学生の交遊」に出ているらしいと知り、図書館で借りることにした。コロナ自粛の隙間、ネットで図書館業務が再開した時があり、予約を入れ受け付けられたのだ。図書館は閉鎖していたが、裏口でこっそりと受け取った。私の後にただ一人高校生が待っていた。

  1900年のパリで「パンテオン会」という日本人留学生の親睦会が誕生した。同年のパリ万博が終った後、画家の黒田清輝、法学者の寺島誠一郎が団体の結成を提案。竹内栖鳳、岡田三郎助ら画家や学者がこぞって参加した。留学生の多くがパンテオンの近くのオテル・スフローで暮らしていたので「パンテオン会」と命名された。

 庫吉は、詩人土井晩翠、法学者美濃部達吉らとともに、結成後に入会したクチだった。面白いのは、会員にはみなニックネームがつけられ、会員同士は渾名で呼び合っていたことだ。

   画家の黒田は、起き上りこぼしのダルマに似ているとして「ドッコイ」、詩人の土井は、下宿でコメをたわしで研ぐのを見られ「タワシ」と呼ばれた。

 京都の川魚料理店の息子だった日本画家栖鳳は、京都弁「そうドスカ」から「ドスカ」と命名された。

 西洋史学者の箕作元八は、せわしないので「スズメ」。画家の鹿子木孟郎は「ナマコ」だった。遠慮ない命名だ。

 さて、白鳥はというと「河岸(かし)きょろ」だった。

 「セーヌ河岸の古本店で古本を渉猟していたことから『河岸きょろ』という渾名であった」と同書収録の児島薫「「男性同盟」としてのパンテオン会」に書かれている。

 

 後年東洋文庫の創設に尽力した学者だけに、パリでも古本を探す日々を送っていたことがわかる。「(あだなのことを、慶應義塾初代図書館長の)田中一貞が白鳥の親類に話したが、彼らはまったくこの渾名のことを知らなかったので、逆に驚いている」と児島は記している。

  白鳥が渾名以外に、パンテオン会のこの大著の中に登場するのは、同会の「星裡閣」グループに顔を出していたこと。

 ロモン街の安アパートで暮らす田中一貞、画家河合新蔵が、近所の八百屋で米を買い、アルコールランプで炊き、仲間と食事し歓談したのが「星裡閣」の集まりだった。銘々でネギ、牛肉など持ち寄ったという。そのメンバーに中村不折土井晩翠などとともに、白鳥の名が出てくるのだった。

 

 しかし、それ以外のことは伺えない。他のメンバーと違って、白鳥のパリでの生活はほとんど伝わってこない。セーヌ河岸の古本屋めぐりと、仲間と鍋をつついて談笑したことだけ。明治の歴史学者は、勉強三昧だったのだろうか。