応挙の馬の絵、鶏の絵の噂話

 石山寺塔頭の紅葉。今年の紅葉はどうなのだろう。
 
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 京都での大正時代の文人の興味深い集まりについて、前に少しふれたが、江戸時代からの伝統らしい。 
 江戸時代後期の京都で、毎月10日になると、医師や文人が集って知識を交換していたのを知った。
「 以文会」と称したおしゃべりの会。内容は、医学ばかりか、文学、美術、考古、珍奇の物品にも及んだ。
 文化年間から、顔ぶれを変えながら、嘉永まで半世紀つづいた。その談話の様子が残っていて、 昭和4年、考古、歴史、教育学者の三宅米吉が「以文会筆記抄」として一部を抜き出し出版している。
 
 京の画家の話が混じっていて面白い。例えば円山応挙(1733-1795)の伝説。
 以下要約ー。
  応挙が、京都、油小路四条北の絵馬屋善四郎の看板に馬の絵を頼まれて描いた。
  出来上がって掲げたところ、2時間ほど、じっと絵を見入っていた男が、店に入ってきた。
  自分は、馬を育てているが、いままでどんな絵も見ても本物の馬とちがっていた。この絵は本物だ、しかし、鼻の描き方だけが誤りだ。爪など2歳の馬のものを描いているのに、鼻だけはおしいかな1歳の馬のものだ、と語った。
  後日、善四郎が応挙にこの話をすると、応挙は手を叩き、男の馬を見る目は大したものだ。自分は馬の鼻を描こうとしたとき合点がいかず、鼻だけ他の馬を写したのだといった。
( 応挙は、2歳馬を写生し、鼻だけ1歳馬の写生をしていたということになる)
 
 応挙の話はつづく。
 応挙は、祇園の神楽所に鶏の絵を頼まれた。鶏の絵ならば、伊藤若冲がいる。若冲に頼めといったが、断りきれなかった。鶏を集めて、描いてみたがうまくいかない。
 雄鶏は、大津街道のものを写し、雌鶏は大宮街の米屋のものを描いて何とか、衝立を完成した。
 鶏を好むある趣味人は、絵を見て、この鶏は、上品な鶏ではないな、といい放った。
(鑑賞用のものと違って、生活用の鶏だからか?)
 鶏の上品下品はともかく、真に迫った鶏の絵であることは確かだ。
 以上ー。 
  鶏の絵は、今に残る八坂神社の応挙の双鶏図のことらしい。
 
 文化11年(1814年)、京都の文人たちが集まって、20年前に亡くなった応挙について、こんな噂ばなしをして居たわけだ。 
 京都の文人が江戸へ遊びにいって、本所羅漢寺で見たオランダの油絵についての、報告も出て来る。
 
(つづく)