象のイラスト入り判子

 江戸時代後期、江戸神田の粉屋に生まれた石塚豊芥子(1799-1861)は、古書の収集に精出し、山東京伝ら当時の売れっ子作家と付き合う文人だった。

 文化10年(1813)年に長崎の出島に到着した象に関心を持ち、100年ほど前の享保年間に渡来した象の事も併せて書き残した。

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 自らの蔵書印に、象の絵を彫ったものを拵えている。よほどの象マニアだったようだ。印を見ると、隅丸の縦長の長方形の上部に「芥豊」の文字、下部に左を向いた象の側面が描かれている。象を蔵書の「蔵」と掛けたのかもしれない。

 日本に一大象ブームを起こした、享保年間渡来の象は、将軍吉宗が注文し、中御門天皇にも謁見し「広南従四位白象」の名もある。民間に払い下げられ、22年間も日本で暮らしたため、よく知られている。

 

 一方、文化10年渡来の象は、80日間ほど長崎に居て、幕府から受け取れないと返事があり、船で返されてしまった。しかし、豊芥子だけでなく、広く注目を浴びたようだ。長崎の御用絵師が写生して、長崎版画で売り出した。

 大正8年7月号「歴史地理」に、この象のことが書かれていた。文化12年、静岡浅間神社に象図が奉納されており、象は文化10年の象だった。

 

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 解説を書いている考古学者・上田三平によると、象図には、出島商館長へんでれきどうふ(ヘンドリック・ドゥーフ)の自著のある蘭文、訳文が書かれていて、訳文には象は斎狼島生まれの5歳で、蘇門大剌島の巴蘭蕃で手に入れた象とある。セイロン島生まれ、スマトラ島パレンバンで飼われていたのを運んできたのだった。

 

 さらに、文化12年9月付で江芸閣(長崎に度々来訪した清の商人であり文人)の署名があり、藤原充信という人物に長崎・崎陽唐館で贈ったことが記されている。おそらく充信が静岡浅間神社に奉納したのだろうと、上田は推測している。

 

 調べると、象を運んできたのは、オランダ船を偽装した英国船だった。オランダ支配のジャワ島を占拠したイギリスのジャワ副総督ラッフルズが、その勢いで出島のオランダ商館の乗っ取りも図り、フェートン号事件に次ぐ第2弾として、シャーロット号、マリア号を出島に送り込んだのだ。なぜか、象を乗せていた。この辺の事情がどうも分からない。