古麻呂が持ち帰った四騎獅子狩紋錦3

 国宝の法隆寺四騎獅子狩紋錦は、だれが長安から日本に持ち込んだのだろう。
「山」「吉」を、安禄山―吉温を表すという仮説を発展させると、遣唐副使の大伴古麻呂(-757)、という結論になる。
 玄宗皇帝の在位中、安禄山―吉温が幅をきかせていた短い時期に、玄宗に謁見し、朝賀に参列したのは、遣唐使藤原清河(-778)の一行だ。副使の一人が大伴古麻呂だった。

 20年前に留学生で入唐したことのある古麻呂が実務を切り盛りしたと考えられる。752年に謁見し、753年の正月朝賀に参列した。この時、唐の宝物のひとつとして、ソグド人の制作の獅子狩紋錦も手にいれたのだろう。

 年末に帰国の途に就くが、予想外の事態が起こる。遣唐使の清河(阿部仲麻呂も伴う)を載せた船はなぜか南に漂流。ベトナム北部辺りまで流された。2人とも長安に戻ったものの、結局帰国できずに客死。

 第2船に乗った古麻呂の方は、鑑真和上を伴って754年正月に奈良に無事到着した。
 続日本紀には、帰国直後の、古麻呂の報告を伝える。玄宗の正月朝賀の序列で、新羅の使者が自分より上位の席次だったのを抗議して、新羅の上位に変更させたと、自らの外交上の功績をとくとくと述べている。清河のことを差し置いているのが気にかかる。

 古麻呂が持ち帰った獅子狩紋錦は、聖武天皇の宝庫に収められたと考えられる。しかし、2年後天皇が逝去すると、光明皇太后孝謙天皇天皇の膨大な宝物をポンと寺院に献納してしまう。主として東大寺正倉院)へ、残りを法隆寺ら17ケ寺に。この時、法隆寺に回ってきたのが、四騎獅子狩紋錦だった。法隆寺には、ソグド文字の焼き入れの入った香木・栴檀香も収められた。ソグドつながりで古麻呂が将来したものだろう。

 献納にあたって、指揮を執ったのは、藤原仲麻呂東大寺法隆寺献物帳の第一署名者は仲麻呂だ。古麻呂は、帰国早々754年仲麻呂の専横に反抗した。橘奈良麻呂の乱連座し、拷問の末、仲麻呂勢によって同年に殺されている。獅子狩紋錦を、東大寺献物から外して、法隆寺に回したのも、仲麻呂にとっては、仇敵がもたらしたものゆえ、と推察される。

 古麻呂は、玄宗皇帝の朝賀で、新羅の上位へ変更するにあたって、「唐の将軍呉懐実」の力を得たとしている。こういう人物が実際いたのか、分からない。将軍程度で席次の変更が可能なのかどうかも。吉温の経歴が気になる。

イメージ 1

 吉温の母は、百済最後の王、義慈王の曽孫女、ひまごという記述がある。日本と連合した百済は、660年新羅・唐軍によって滅ぼされた。新羅への思いは同じ。古麻呂が手を使って、吉温を動かした、という想像をかきたてられる。

 
 
 写真は、百済がほろんだ白馬江の辺り