▼下の写真 新疆の唐墓で出土したソグド人と思われる木俑(「新疆歴史文物」文物出版社、77年、北京)
「山」「吉」の漢字入りの織物も、ソグド人が経営する唐の工場で制作したものだろう。8世紀になると、ソグド商人の唐での経済活動は、同胞の安禄山(705-757)の政治的進出を後ろ盾に、さらに活発化したと推察される。(反動で、安禄山の死後に衰退した)
中国の史書では、2人の評価は、極めて低く、賄賂を用い、狡猾、残忍、陰険である、と罵詈雑言である。とくに、唐を裏切ったとして、吉温(755年獄死)の扱いはひどい。悪口は、唐に反乱し「燕」の皇帝を名乗った安禄山から由来するばかりでなく、ソグド人と漢人社会の商習慣、社会通念の違いがもたらしたもので、あくまで中国側の尺度だ、という見極めが必要だろう。
楊国忠によって吉温が獄死させられるまで、この二人が活躍した短い時代(750-755)ソグド商人が制作したのが、獅子狩紋錦だったと考える。
なぜ「山」が安禄山で、なぜ「吉」が吉温か、具体的証拠があるわけではない。
漢字を人物を表すものだと仮定すると、浮かび上がってくるのが2人だ、ということだ。安禄山の「禄山」は、ソグド語でロクシャン=光という意味だという。
唐代隷書の書体の「山」字を若干変形して、光を思わせるデザインにしたと見えなくはない。
吉温の「吉」は、上部が「士」でなく、「土」。
問題は、制作年代の齟齬。これまでの研究では、古い時代推定では600年説もあった。獅子狩紋錦の、連珠円紋の詳細なデザインの変遷などからも、時代の推定が行われている。下って、則天武后末期705年以降という説も出ている。それでも、彼らの時代750-755年より半世紀も早い。
では獅子狩紋錦がどうして、法隆寺にあるのか。