四騎獅子狩紋錦について2

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 四騎獅子狩紋錦は、ササン朝ペルシア(226-651)で流行したデザインの流れのひとつ。
 ペルシャ文物の多くは、シルクロードの貿易活動を担っていたソグド商人が唐にもたらしたと考えられる。
 
▼下の写真 新疆の唐墓で出土したソグド人と思われる木俑(「新疆歴史文物」文物出版社、77年、北京)
 
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 ペルシャ系(イラン系)であるソグド人は、長安などにも拠点を持ち、経済活動を行った。
「山」「吉」の漢字入りの織物も、ソグド人が経営する唐の工場で制作したものだろう。8世紀になると、ソグド商人の唐での経済活動は、同胞の安禄山(705-757)の政治的進出を後ろ盾に、さらに活発化したと推察される。(反動で、安禄山の死後に衰退した)
 
 ソグド商人たちは安禄山を盛り立てたのだろう。玄宗皇帝の信任を得た安禄山は、地位を高めてゆく。743年に長安に入朝。安禄山は官僚の中から吉温を引き立て、右腕として頼る。
 
 吉温は漢人、母は百済系とされる。
 
 750年に河東節度使に就任した安禄山は、吉温を副使にする。安禄山とともに、吉温の地位もどんどん上がって行く。ソグド商人たちの経済活動を政治的に支援する安禄山―吉温が確立されたのだろう。
 
 中国の史書では、2人の評価は、極めて低く、賄賂を用い、狡猾、残忍、陰険である、と罵詈雑言である。とくに、唐を裏切ったとして、吉温(755年獄死)の扱いはひどい。悪口は、唐に反乱し「燕」の皇帝を名乗った安禄山から由来するばかりでなく、ソグド人と漢人社会の商習慣、社会通念の違いがもたらしたもので、あくまで中国側の尺度だ、という見極めが必要だろう。
 
 楊国忠によって吉温が獄死させられるまで、この二人が活躍した短い時代(750-755)ソグド商人が制作したのが、獅子狩紋錦だったと考える。
 
 なぜ「山」が安禄山で、なぜ「吉」が吉温か、具体的証拠があるわけではない。
 漢字を人物を表すものだと仮定すると、浮かび上がってくるのが2人だ、ということだ。安禄山の「禄山」は、ソグド語でロクシャン=光という意味だという。
 
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 唐代隷書の書体の「山」字を若干変形して、光を思わせるデザインにしたと見えなくはない。
 
 吉温の「吉」は、上部が「士」でなく、「土」。
 
 問題は、制作年代の齟齬。これまでの研究では、古い時代推定では600年説もあった。獅子狩紋錦の、連珠円紋の詳細なデザインの変遷などからも、時代の推定が行われている。下って、則天武后末期705年以降という説も出ている。それでも、彼らの時代750-755年より半世紀も早い。
 
 ただ、この獅子狩紋錦の製作意図が、当時の流行のデザインではなく、ペルシャの王たちに擬えて、安禄山―吉温を賛美するため、ソグド人が擬古的デザインを用いたと考えてみれば、解消する可能性もある。
 
 では獅子狩紋錦がどうして、法隆寺にあるのか。