北原白秋の墓は、多磨霊園にある。年2度の細の実家の墓参りで、周りの区画を歩いていて白秋の墓に出くわした。随分と大きな目立つ墓だった。
白秋は晩年、杉並・阿佐ヶ谷で暮らしていたようだ。白秋が発行していた短歌雑誌「多磨」。Y書房で手に入れた「多磨」は昭和22年(1947)発行で、白秋はすでに亡く、夫人北原キクが代わって編集兼発行人となっていた。
後書きに「白秋先生がみまかられてから早や満五年の日が経った。それはすぐ昨日のやうにも思はれるがまた何かとほい昔のやうにも思はれる。十一月二日、墓前祭がしめやかにとり行はれたが、お墓もすでにおのづからなる古色がうかがはれて感慨はふつふつと胸に迫った…」と編集を手伝った歌人木俣修が記している。
さて、白秋が描いた表紙の絵のこと。扉に「表紙 題字・画 北原白秋」とあるので、白秋の作品であるのは間違いない。
2つの絵を見ると、海と赤い太陽(蝶が描く白い日輪)の共通点がある。それに強烈な赤色。
白秋の歌をしっかりと読んだことがないが、詩人の安東次男の「茂吉と白秋」(「花づとめ」所収)が手掛かりになった。
歌人の斎藤茂吉に、海と太陽と童の頭を歌った作品があり、それが白秋の歌の影響だったと書いていたのだ。大正4、5年の両者の歌に、太陽と海、それに童の頭という不可思議な同じイメージが歌われた事実に関心を示したのだ。
にちりんは白くちひさし海中に浮かびて声なき童子があたま 茂吉
まんまろな朱の日輪空にありいまだいつくし童があたま 白秋
それをヒントに、日輪と海を頼りに、大正4年発行の白秋の歌集「雲母集」に目を通してみた。
絵の様な、赤い太陽、海が、歌集にあふれていた。白秋が東京から三浦三崎に移住、油壷、城ケ島と海を眺めて暮らしていた大正初期の歌だった。
大きなる赤き日輪海にあれど汝が父いまだ帰らざりけり
赤き日に彼ら無心に遊べども寂しかりけれ童があたま
絵を見ながら、歌と照合してみた。
この絵は、手前の灰色の大きな輪が理解できなかったがー。
夕焼小焼大風車の上をゆく雁が一列鴉が三羽
この歌に出てくる、大風車こそ、この絵の正体らしいことが分かった。さらに絵を見ると、雁が遠くで幾つもの列を作って飛んでいる。
では、太陽を背にした人影らしいものはどうか。
赤々と夕日廻れば一またぎ向うの小山を人跨ぐ見ゆ
と似たイメージの歌があった。前後の歌では、巡礼、種蒔人が出てくるので、荷を負う人物は、巡礼者と解釈できそうだ。
ひさかたの金色光の照るところ種蒔人三人背をかがめたり
当時の「雲母集」がアーカイブで見ることができるのに気づいた。歌集を見てみた。あった、225頁に同じ絵がー。
雲母集には、白秋の描いた挿絵がほかにも多数あった。絵があって、歌集の魅力が倍増しているのがよく分かった。
絵は大正4年ごろ、白秋が28ー29歳ごろの作品だった。
もう一つの絵は、雲母集にはなかった。(続く)