白秋の「群蝶の舞」

 「多磨」は、白秋没後11年経って、終刊(昭和28年)となる。没後、編集人の名義は妻のキク(菊子)だが、編集担当は中村正爾、木俣修らの歌人が代わって行ったようだ。

 昭和23年の1月号からは、木俣修から泉甲二に変わったのが、同号の「月報」で分かる。「かねて議題に上がってゐた編集担当者が木俣修より泉甲二に代つた」。同号の消息欄に「木俣修—―令息急性腎臓炎にて世田谷国立病院に入院中につき昼夜を分たず付添看護中」とあり、担当変更の理由が想像される。

 その同号には、「阿佐ヶ谷雑記」という編集後記があり、そこで泉は、白秋の絵画に触れていた。

白秋の著作の多くが形態に於いて著者の自装になつてゐることは特筆すべきである。たとえ他に装幀者を求めるにしても、著者が己れの美意識によつて装幀者を駆使してゐる関係上、白秋の著作は他の追随を許さぬ独自の色彩をほしいままにしてゐる。

 白秋は、自著の装幀は自ら考えて行った、他の装幀家を起用する際も、自分の考えがあってのことだった、という指摘だ。さらにー。

これはとりもなほさず、白秋自身が絵画をよく描き得たといふ点に帰する。さうゆふ意味で、私は白秋の一面の芸術性を知るために、「白秋の絵画」といふ特種の著作が企画されて然るべきだと念願している。素人芸で直ちに想起するのは武者小路実篤の絵であるが、白秋の絵も武者と共に、明らかに一家を成してゐる」と、画家としての白秋に着目している。

 そして、問題の蝶々の表紙絵についてもー。
歌集『雀の卵』の挿絵の中から選んだものであるが、原画はブラツク・アンド・ホワイトの色感を極度にまで高調したものでその象徴美は素晴しい」と、表紙絵の疑問を解いていた。

 表紙の絵は、泉が過去の歌集の挿絵から選んでいたのだった。

 

「雀の卵」は、大正10年上梓した第3歌集で、序で白秋は「大正三年からぽつぽつ作り出して、足かけ八年目の今月今日、大正十年七月十四日午後三時にたうとう最後の朱を入れて了つたのである」と書いている。

「命がけのものであった。この仕事を仕上げるばかりに、私はあらゆる苦難と闘って来た。貧窮の極、餓死を目前に控へて、幾度か堪へて、たうとう堪へとほしたのも、みんなこれらの歌の為めばかりであつた」

 小笠原父島移住、帰京、小田原移転と2度の離婚劇に関係した転居、弟との事業(出版社設立)と、その失敗、貧窮生活。三浦三崎の生活の後、激しい8年を過ごしていたのだった。

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 アーカイブで探してみると、表紙に使われた絵は、「群蝶の舞」と題した2首の隣に、挿絵として掲載されていた。絵もまさに「群蝶の舞」だ。

 表紙の赤より、原画のモノクロははるかに印象の強いものだった。