其角の命拾いと大野秀和

 薄田泣菫のエッセイはやはり面白い。大正時代の人物や時代の空気が伝わってくるからということもあるが、関心を持っている人物が近いということもある。

 

 好きな元禄の俳人宝井其角も泣菫の「茶話」に登場する。「36計逃げるに如かず」のエピソードを持つ其角を、第一次世界大戦で、イタリアがオーストリアと何度も衝突した「イゾンツォの戦い」に重ねている。

 1917年(大正6年)の第12次にあたる最後のイゾンツォの戦い(カポレットの戦い)では、ドイツがオーストリア側に参戦。形勢不利と見たイタリア軍がさっさと撤退を決めたという外電に触れて、泣菫は「いい考えだ」と其角の例を挙げたのだった。

 

 其角の遁走劇は、其角が俳人の大野秀和をバカにしたのを、当人が伝え聞いたことが発端。問題は、秀和がおサムライだったことだ。某侯の豪勇の武人で鳴らし、「浪人してもむかしを忘れず、惣髪して両刀を帯れり」(続俳家奇人談)という俳人だった。

 

   其角はこの秀和と、両国橋の上でばったり出くわした。

 秀和は「いかに汝、しかじかのこと申せし由、あはれ奇怪なり。尋常に勝負せよ」と刀の柄に手をかけた。

 其角は「さる事申したれば、汝遺恨に思ふはもっともなり、いざ相手に罷り成らん、さりながら支度いたす、しばらく待れよ」と、事実を認め応じる風を装った。

 と其角は裾を引き上げ、雪駄を腰にはさむと、「いざ御参なれ」と言い捨てて、後を見ず一心に駆け出し、逃げ去ってしまった。

 秀和は「あまりのことに興ざめ、長追せずして止みぬ」。凄んだ秀和も、あっけにとられ、その場の怒りを収めてしまった。

 大野秀和という俳人を知らなかった。

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 明治20年の広瀬藤助著「古今名家書画景況一覧」(著名画家、書家の「番付」)を見ると、「風流俳人之部」東の番付で、大きな文字の「芭蕉庵桃青(松尾芭蕉)」「宝晋斎其角(宝井其角)」に交じって、小さな文字で「大野秀和」の名があった。寺村山川(其角の門人)、早野巴人(其角に師事)らと並んでいた。この頃は、俳人として名も通っていたのだろう。

 明治29年の「大日本人名辞書」に、「炭瓢斎と号し又た相水翁と云ふ江戸の人似春か門人正徳四年八月歿す年六四」とあり、代表句が掲載されていた。

 

 「小男にかたしけなしや下もみち」

 小男には、仰ぎ見る必要のない、下葉の紅葉やら散った紅葉が有難く思えるよ

 秀和は小柄の男だったのか。この句を見ると、イメージとは違い、結構控えめないい人ではなかったかと思えてくる。本当に刀の柄に手をかけたのか、史実はどうあれ、其角を斬り殺さなくてよかった。

 

 なお、イタリア軍の方は、泣菫の言葉と違い、撤退が遅れ、3万人超の死傷者、27万人の捕虜がでる大敗北に終わった。