ウサギとスズメの山野草を択んだ

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 秋に山野草の会に初めて行って手に入れたヒキノカサが、めでたいほど黄色の花をつけたので、春の山野草の会の知らせに、細について、いそいそと出かけたのだった。

 

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 愛好家が出品した鉢を見て回る。伊吹山琉球の名がついた山野草ー。私は、シコタンハコベ(上)とか、エゾネギ、エゾカラマツと、白の花を咲かせる北海道の野草に目を惹かれた。

 

 販売所では、今回も分からないまま、ウサギノシッポという名に惹かれ、ネコジャラシに似た野草、かそけき穂(苞穎というらしい)が気にいってコメガヤ(米茅)を択んだ。

 戻ると、細は細の択んだ野草を鉢に植え替えている。「どの鉢がいいか」と聞かれ、ウサギノシッポ、コメガヤも、細の作った盆栽鉢に入れてもらった。

 

「同じようなものを買ったわねえ。イネ科だから、これ、増えてしょうがないわよ」。

 

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 ウサギノシッポには、猫が反応して近づいて来た。ネコジャラシエノコログサ)に似ているのは猫も分かるのだ。

 ウサギノシッポは、地中海沿岸が原産で、英名も

  rabbit tail grass、bunny tail grass、hare's tail grass

と、同じように穂をウサギの尾に見立てて命名している。

 

 エノコログサの方は、穂を犬に見立てて、犬ころ草。

 (イヌッコログサ→エノコログサ)。漢名も狗尾草。「(エノコログサの名は)その穂が子犬の尾に似ているからで、一名(ネコジャラシ)は子猫がこれにじゃれるから」(松田修)と「植物図鑑」に書いてあった。

 

 犬の尾がエノコログサで、ウサギの尾がウサギノシッポなのだった。

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 コメガヤは、小さな穂(苞穎)が米粒ににているから、米茅。この穂を子雀に見たてて、スズメノコという別名もあるのだった。

 英名 mountain melick。melickは、ラテン語名の melico nutans から来ていて、melには蜜の意味があるらしい。ある種のコメガヤは茎を齧ると、甘い味がするそうだ。ロシア語名は、穂を真珠に見立てて、「pearlovnik」。

 

 私の数少ない草花の鉢のレパートリーに、ウサギとスズメの名を持つ野草が、カエルの名を持つ野草に加わったことになる。

 

 

店仕舞いの古書肆と熊楠と

 4月末で店仕舞いをする本郷三丁目の古本店に、昼休みに出かけてみた。閉店割引セールのせいか、お客さんがいつもより多い。

 

 目当ての本は、売れていた。

 この前ここで見つけた画家中川一政のエッセイ「山の宿」が、大変いい文章だったので、また中川一政の「遠くの顔」を見つけて、他の2冊と一緒にカウンターに持って行くと、ご夫婦が店仕舞いに向け少しずつ後片付けをしていた。

 奥さんは、中川一政の本だと気づいて、後ろを向いて「こんな本もあるんですよ」と「腹の虫」を教えてくれる。

 ページをめくり、画家森田恒友に触れた個所を見つけたので、「これもお願いします」。おかみさんは、「よかった。いい本が売れ残ると、本にも申し訳ない気がして、つらいので」と、目を輝かした。

 

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 ご主人は、封筒、便せんと、とある手紙の入った額を大事そうに拭い、紐を結び直していた。昭和の初め、本郷6丁目に古本店を開業した先代へ、南方熊楠翁から送られた手紙だった。先代夫人の知人が熊楠と親交があったため、熊楠は本探しに、主人の父の古本店を頼って、手紙でやり取りしていたのだという。

 

 熊楠翁の小さな字が、筆でびっしりと封筒に書かれている。家宝ですね、というと、欲しがる人がいるのですが、決して手放さないとのこと。おかみさんは、先代と熊楠翁の手紙の内容が紹介された本を取り出して、見せてくれたが、すぐ仕舞った。それも売り物でないことが伺われた。

 

 最近知った店だったが、2代にわたる90年の歴史を持つ古本店だった。店を閉じるということは、父親の代から続いた時間が止まることなので、最後の貴重な時間を思い出とともに過ごしている様子だった。

 

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 結局4冊に増えた本は、3つの袋に分けて入れてくれたが、随分と重たかった。昼間の空いた地下鉄に乗って、大急ぎで事務所に戻った。

 

 

ゴシキヒワを狙うバロッチの猫

 心配事が多く、気分を変えるために休日、明るい音楽を聴いて過ごすことにした。

 

 まずしばらく聴いていないヴィヴァルディの「フルート協奏曲作品10の3」。副題が「ゴシキヒワ」で、日本には生息しない欧州の色鮮やかな五色の鳥の賑やかな鳴き声を模した明るい曲だ。

 ゴシキヒワは英語ではGOLDFINCHだが、正式にはEUROPEAN GOLDFINCH。前者はオウゴンヒワと和訳される。ヴィヴァルディ(1678-1741)の生きた時代に、ゴシキヒワは飼われて愛玩されていたらしい。

 

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Bewickの「BRITISH BIRDS」から


 

 絵画の世界では、ヴィヴァルディの100年以上前のルネッサンス時代に、聖母子像でゴシキヒワが描かれている。

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 調べると、ラファエロの1507年頃の作品に、イエス・キリストに幼い聖ヨハネが手渡そうとする「ゴシキヒワ」が確かに描かれていた。

 

 ゴシキヒワは、情熱の象徴とされ、これからイエスを待ち受ける苦難の生涯に耐えられるように、情熱のゴシキヒワが描かれているとのことだった。

 鳴き声が賑やかなので、この鳥が情熱のシンボルになったようだ。

 

 この聖母子と聖ヨハネの絵画は、ルネッサンス後期の画家フェデリコ・バロッチ(1535頃―1612)にも受け継がれているが、興味深いことに、バロッチはここに猫を付け加えている。

 ヨハネが手にするゴシキヒワに猫が興味をもって狙っているので、腕を高く上げてイエスに手渡そうとしているのだった。

 

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 欧州の猫についていえば、15世紀末にローマ法王が、猫は悪魔の使いであり、欲望と怠惰の象徴として、信者に飼うことを禁止していたはずだった。ルネッサンス時代も変わることはなかった。

 ところが、バチカンで法王のもとで、美術、装飾の仕事をしていた画家バロッチは猫を愛し、猫のスケッチを多数残した。

 「聖母子と幼い洗礼者ヨハネ」の宗教画でも猫を登場させ、聖母子、ヨハネとも、猫を温かい眼差しで見守る姿を描いたのだった。

 猫は、悪魔の手先から、慈愛のシンボルに変わっているかのようだ。ロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されるこの作品は今では「猫の聖母」で通っている。

 

 17世紀終わり、ネズミの繁殖とペストの流行があって、猫の地位が復権したとされているが、それより100年近く前に、猫の地位向上に貢献をした画家がいたことになる。宗教画に、猫をしのばせたのは、かなり勇気ある行為だったのではないか。彼も、GOLDFINCHの情熱を持っていたのだと思う。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

古本店の店仕舞い

 本郷三丁目交差点にある古本店が、店仕舞いする。地下鉄で2駅、出かけてみると、おかみさんが坐っていて、あと1年頑張るといっていたんだけど、主人の体力がもうもたないと、4月で閉めることにきめた、といわれた。コロナとは無関係で、理由は高齢による引退。継ぐ人もいなかったという。

 

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 谷田博幸「ロセッティ」(1993年、平凡社)を択んで勘定をしていると、レジの後ろに画家中川一政の本が立てかけてあり、表紙の犬の表情が圧倒的だったので目を奪われ、「山の宿」(1946年、八雲書店)も購入した。

 おかみさんに「中川さんの作品なら、近くのあれにたくさん展示してあるじゃないの」と言われるが、要領を得ない。中川一政は文京区生まれで、地元の誠之小学校を卒業している。どこかに作品を寄贈しているのだろうか。

 ご主人には、宇野浩二の「回想の美術」を買ったとき、宇野は近所に住んでいて、銭湯でよくあったことを教えてもらったばかり。

 店が閉じれば、こういう貴重な記憶もまた、消えてしまうのだ。

 

 その、宇野浩二の文章は実にわかり易い。「回想の美術」で感心した。

 神保町の古本店の100円本で宇野浩二「馬琴・北斎芭蕉」(1943年、小学館)を見つけてすぐ買った。

 句点がやたら多いのが特徴で、「みな、望んで、日夜、かはりがはりに、北斎を、看護した。」と、短い文章に5つも句点があったり、「、した。」と、「した。」の前に「、」をしるすケースもある。 

 この本では、大坂で亡くなった松尾芭蕉の最期、門人たちが詰めかけた様子が眼に浮かぶようだった。

 たまたま旅中の一番弟子、其角が間にあったこと、各務支考向井去来にしかられた様子。

 また、芭蕉は下痢が止まらず、「自分の病気が不浄である事をはばかって、見まひ客を自分の病室に入れないために、惟然にいひつけて、その事を紙に書いて、門に張りつけさせた。そこで、看病の門人たちは、壁を隔てて、次ぎの間に控へた」こと。

 あの「近世畸人伝」に登場する広瀬惟然がてきぱきと用を果たしたのだった。

 

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 芭蕉の死を悼み弟子たちが慟哭する様子を、釈迦の涅槃図のように、前に紹介した鍬形蕙斎が略画で描いた「芭蕉翁臨滅度之図」が挿絵で載っていた。かつて東京・墨田区の木母寺にあった石碑を正面摺したもので、弟子の袖に「杉」「六」などの一字が書かれていて、杉山杉風森川許六などと分かるようになっている。

 

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 一方、蕙斎のライバル葛飾北斎の肖像は、宇野浩二と青春を過ごした画家鍋井克之が本の装幀とともに、扉絵で掲載していた。

 この本で、蕙斎と北斎が同居しているのも面白い。

 

 広がって行く俳人、画家のイメージ。古本屋は私にとって情報の宝庫だ。店仕舞いは哀しい。

 

 

 

5-60年代のカバーデザイン

 休日なので、前夜のうちにラフテーと味付け玉子を作り、今朝沖縄そばを湯掻き、それにのせて、細と食べた。ラフテーが今回も固い。細は「圧力なべを使ったらどうか」というが、沖縄の人は普通に柔らかくできているから、もう少し試行錯誤を続けることにする。

 

 午後に孫が遊びに来るというので、それまで独りの時間を大切にしようと、レコードを聴くことにする。

 

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 神保町の猫のいる古レコード店では、ジャズのLPも購入している。最近はジャケットデザインで、選んでいる。デザインのいいものは、演奏、録音、編集も手を抜いていない。

 

 デイブ・マケンナ「ソロ・ピアノ」もそんな一枚だ。分解したピアノの鍵盤の一本一本を並べている。白鍵が目立つように、左半分をあさぎ色にプリントして浮き立たせている。初めは何か分からなかった。

 COVER BY BURT GOLDBLATT

の記述があり、マサチューセッツ生まれのアート・ディレクター、バート・ゴールドブラット(1924-2006)の手掛けたものだった。50-60年代のジャズアルバムのデザインを多数担当した。

 

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 ほかにも彼の作品が家にあるか探したところ、同時代のグラフィック・デザイナー、リード・マイルス(1927-1993)のものが沢山出てきた。

 舗道を歩く女性の足、送電線、店の扉など、都会の光景の一コマを大胆にトリミングしたデザイン。BLUE NOTEレーベルで仕事をしていたので数も多い。

 

 ジャズに興味を持ったのは、音楽とともに、演奏家たちの住む町の匂いを伝えてくれるジャケットカバーの影響も強かったのだと、あらためて思う。

 

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 写真もいい。NY生まれの写真家ヒュー・ベル(HUGH BELL、1927-2012)が撮影した若くして亡くなったトランペット奏者、トニー・フラッセラの煙草を指に挟んで横を向いた表情。

 トロンボーンに腕を通しリラックスしたベニー・グリーンの笑顔を捉えたのは、NY生まれの写真家スティーブ・スカピロ(1934生まれ)。報道写真家として、1965年の公民権運動のアラバマ州セルマの血の日曜日事件で知られ、また、映画「ゴッド・ファーザー」「タクシー・ドライバー」でスティール写真を担当して俳優たちを撮影しているのだという。

 

 50-60年代のNYの香りを嗅ぎながら、ひと休み、である。

 

 

古本に挟まれた70数年前の履歴書

 宣言解除で神田小川町は、急に人出が増えた。きょうは、事務所でのんびりしている。

 先週は神保町を散策し、馴染みの古書店の100円本を覗き、大正13年発行の「江戸切支丹屋敷の史蹟」など3冊を択んだ。

 

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 戻ってみると「江戸切支丹屋敷の史蹟」に、2つ折りの履歴書が挟まっているのに気づいた。

 1枚の便箋の表裏に罫線があり、「陸軍」と印刷されていた。帝国陸軍の便箋なのだった。

 

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 大正生まれの男性のものだった。中部地方旧制高校在学中の昭和18年、召集されて北部軍の一部隊に入営。翌年、北海道・恵庭の「北部軍教育隊」に入隊し、陸軍下士官教育を受けている。

 この間、東京帝国大学文学部に入学とある。入隊しながら入学が許されたらしい。同20年2月、曹長、見習士官として、東京の高射砲第一師団に転属。日に日に空襲が激化する東京で、米軍爆撃機B―29を撃ち落とす任務についたのだった。

 

 B-29は上空1万メートル以上の高さで飛来するため、対応できるものがなく、新型の高射砲(三式12センチ高射砲)が前年末に製造されたばかりだった。

 そして迎えた3月10日夜。100万人が罹災し10万人が死亡、下町が焦土と化した東京大空襲を、この部隊で体験したのだった。悪天候の雲の上からのB―29の爆弾投下。高射砲もなすすべがなく、1機も撃墜できず、首都の防空体制に不信感が高まったとされている。

 

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 履歴書によると、機関砲の大隊、独立機関砲の中隊を経て、6月に本土防空の任務を持つ「第一航空軍」に転属している。飛行機による迎撃を統括していた。焦土と化した首都では、この司令部も東京・三宅坂から吉祥寺の成蹊大学本館に移っていた。

 2か月後、敗戦を迎えた。23歳だった。

「8月 陸軍少尉、叙正八位、高等官八等」

「9月 召集解除」とだけ記してある。

 

  さらに、昭和22年5月、東大文学部に再入学の記述。在学中に、なぜか陸軍の便箋を用いて書いたようだ。結局、履歴書は出されずに、「江戸切支丹屋敷―」の古本に挟まれたままの状態で忘れさられ、最後は古書店の100円本売り場に出されたのだった。

  調べてみると、戦後、高校教育一途に生涯を過ごされ、天寿を全うされた立派な方のようだった。

 

 古本に70数年封じ込められていた履歴書を前に、逡巡しながらも、大正末期生まれの世代の青春の一例として、76年前の3月の東京大空襲を思いつつ、記させていただいた。 

 

 

 

 

 

気にかかる鼠図

 大正13年に発行された日本木版画粋を整理していたら、「鼠と瓜」の版画があった。

 中国は13世紀、宋末元初に活躍した文人画家銭舜挙の作品として紹介してあり、日本にある銭の代表作と記してあった。銭は、今は「銭選」の名で通っている。

 

 瓜の中身を親鼠が齧っていて、子鼠3匹が瓜の外で、親鼠が食い散らかしている瓜の欠片を食べているという図柄。

 

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 ネットで探して、現在は国立文化財機構所蔵の重要文化財であることが分かった。ただし、銭選作でなく、「銭選印」の「鼠図」という別表記に変わっていた。銭選には、模作、贋作が多く、銭選の印はあるものの、本人の作とは断定できないから、この表記らしい。

 本人作ではなくても、作品は動物画として当時の表現力、技量の高さを十分に伝えているので、重文指定なのだろうか。

 

 さて、この絵、どこかで見たぞ、と頭を巡らせると、前に俳句誌「笛」の口絵で紹介した版画家関野準一郎のカットと気づいた。

 

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 やはり鼠が瓜を食べている様で、子鼠はいないが、ほぼ構図は一緒だった。編集者から鼠の絵の依頼があり制作したものと、後記に記されている。

 

 単なる模作だったか。いやいや、それは分からない。銭選は、絵とは別の評価があるからだ。日本木版画粋の解説には次のように書いてある。

 

≪(銭と交流のあった宋の文人画家の)趙孟頫(ちょうもうふ)が元に仕へて顕官となりしより人皆な之に附従して一身の富栄を求むるも舜挙独り昂然として自ら詩画に耽り以て其の身を終ふ亦画品の超凡なるを知る可きなり。≫

 

 宋が元に滅ぼされた後、宋の文人画家たちは、湖州の呉興に移住して活動していたが、趙が元のフビライ汗の招きに応じると、呉興の文人画家たちもこぞって趙の後を追って元朝の役人として仕えるようになった。

 銭は独り初志を貫いて、詩作、画業に専念して生涯を終えた、というものだ。

 

 件の掲載誌「笛」は、昭和24年発行のものだった。版画家が、敗戦後一変した社会の中で、鼠を描いたのではなく、銭選を択んで書いたところに眼目があるのかもしれない、と思った。青森市生まれの関野はこの後、スイス、米、スロベニアの国際版画展で受賞し、米の大学で版画を教える国際派の版画家となった。

 銭選同様、群れたり、流されることを好まない人だったのではないか。

 よく見ると、この鼠、動きがあって、逞しそうに描かれている。版画家関野準一郎のことも知りたくなってくる。