古本に挟まれた70数年前の履歴書

 宣言解除で神田小川町は、急に人出が増えた。きょうは、事務所でのんびりしている。

 先週は神保町を散策し、馴染みの古書店の100円本を覗き、大正13年発行の「江戸切支丹屋敷の史蹟」など3冊を択んだ。

 

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 戻ってみると「江戸切支丹屋敷の史蹟」に、2つ折りの履歴書が挟まっているのに気づいた。

 1枚の便箋の表裏に罫線があり、「陸軍」と印刷されていた。帝国陸軍の便箋なのだった。

 

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 大正生まれの男性のものだった。中部地方旧制高校在学中の昭和18年、召集されて北部軍の一部隊に入営。翌年、北海道・恵庭の「北部軍教育隊」に入隊し、陸軍下士官教育を受けている。

 この間、東京帝国大学文学部に入学とある。入隊しながら入学が許されたらしい。同20年2月、曹長、見習士官として、東京の高射砲第一師団に転属。日に日に空襲が激化する東京で、米軍爆撃機B―29を撃ち落とす任務についたのだった。

 

 B-29は上空1万メートル以上の高さで飛来するため、対応できるものがなく、新型の高射砲(三式12センチ高射砲)が前年末に製造されたばかりだった。

 そして迎えた3月10日夜。100万人が罹災し10万人が死亡、下町が焦土と化した東京大空襲を、この部隊で体験したのだった。悪天候の雲の上からのB―29の爆弾投下。高射砲もなすすべがなく、1機も撃墜できず、首都の防空体制に不信感が高まったとされている。

 

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 履歴書によると、機関砲の大隊、独立機関砲の中隊を経て、6月に本土防空の任務を持つ「第一航空軍」に転属している。飛行機による迎撃を統括していた。焦土と化した首都では、この司令部も東京・三宅坂から吉祥寺の成蹊大学本館に移っていた。

 2か月後、敗戦を迎えた。23歳だった。

「8月 陸軍少尉、叙正八位、高等官八等」

「9月 召集解除」とだけ記してある。

 

  さらに、昭和22年5月、東大文学部に再入学の記述。在学中に、なぜか陸軍の便箋を用いて書いたようだ。結局、履歴書は出されずに、「江戸切支丹屋敷―」の古本に挟まれたままの状態で忘れさられ、最後は古書店の100円本売り場に出されたのだった。

  調べてみると、戦後、高校教育一途に生涯を過ごされ、天寿を全うされた立派な方のようだった。

 

 古本に70数年封じ込められていた履歴書を前に、逡巡しながらも、大正末期生まれの世代の青春の一例として、76年前の3月の東京大空襲を思いつつ、記させていただいた。