大津絵の花売娘に見おろされ

 書室の壁の上方から、ここ十何年も私を見おろしているのが、「花売娘」だ。

 大津絵の模刻で、あらためて確かめると、大正13年に日本木版印刷(株)の田中甚助によって刷られた木版だった。

 印刷社の住所は東京市外田端635番地。芥川龍之介、鹿島龍蔵らの住んでいた「田端文士村」の一角だった。この辺りは大正12年の関東大震災の被害が少なかったことは、龍蔵の「天災日記」の事で前に触れた。印刷所も無事だったため、災害の翌年に発行できたのだろう。

 

 大津絵は好きなので、押し入れにある同社の「日本木版画粋」のうちから、これを選んで額に入れたのだった。江戸時代、東海道は山科から大津宿間の街道で、土産物屋が安価な版画を売り出していた。仏画、鬼の絵、藤娘などバラエティにとんでいて、素朴でユーモラスでもある。それらが大津絵と呼ばれた。

 

f:id:motobei:20210315231746j:plain

 

 花売娘は、若い女性が花笠を被って、天秤棒を肩にして花を2鉢下げて、売り歩く様を描いている。

 絵には、「生花はうきよの水につながれて命はきれて死なれざりけり」という言葉が刷られている。

 生花は切られて命はないはずなのに浮世の水につながれて死ぬことができないのだ、といった意味なのだろう。

 

 いち早く大津絵に焦点を当てた柳宗悦の「大津絵」を読むと、「姿は之も藤娘に類似する。異なるところは天秤を担ぎ、その両端に紐で花をつるし、売り歩く様である。花は植木鉢に植ゑられてゐるやうに見える」と花売娘を解説していた。

 花は生花でなく、植木鉢に見えるとしている。そうだとすると、歌の意味は、切り花は水のおかげで生きているだけでほんとは死んでいる。それに引き換え、鉢植えの花は生きているよ、と花売娘は鉢植えを売っていることになる。

 

 大津絵の藤娘は、円山応挙の絵に画中画として、家の中に貼られているのが確認されている。鑑賞だけでなく、御利益のあるものとされて大事にされていたからだろう。藤娘が手にしている藤は藤原氏を連想させ、権門勢家との良縁を叶えるものなどという解釈もあるらしい。

 柳宗悦は「藤娘が何を意味したか定かでない。後年の歌に云ふ、『さかりとぞ見るめもともに行く水のしばしとまらぬ藤浪の花』」としている。

「さかりとぞー」、美しい盛りもあっという間に過ぎ去ってしまうものよ、という教訓の道歌が、藤娘に添えられるのは、後年になってからであって、本来の意味は不明としているようだ。

 

「生花はー」も、道歌なのだろうか。

 花を、鉢植えと解釈しようが、生花と解釈しようが、どちらも死なないで生きているのだから、花売娘は「長寿」を叶える縁起物と、とりあえず勝手に解釈して、しばらく部屋に飾っておくことに決めた。

 

 

ラミュ「兵士の物語」から「恐怖の山」へ


 先月ヒマラヤの氷河が決壊してインドの村を濁流が襲い大量の死者が出たというニュースがあった。現地では氷河に極秘で埋められた核爆発装置が作動して崩落が起きたのだ、とのデマが流布しているとのことだった。それほど、氷河の崩落が予想外で凄まじいものだったのだろう。

 

 前に書いたように、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」(1918年)の台本を書いたスイスの作家ラミュ(1878-1947)のことを知りたくて、あれから2冊の翻訳本を読んだ。ともに夢中になって読み通すような内容だった。その一冊が、1926年の小説「恐怖の山」(河合享訳、昭和33年、朋文堂)で、アルプス地方の氷河の崩落と麓の村の壊滅が描かれていた。

 

 ラミュは、スイス西部のフランス語圏の作家だった。レマン湖周辺のこの地方は、気候もフランス南部と共通していて、葡萄の栽培が盛ん。ラミュがストラヴィンスキーと初めて会ったのも、葡萄畑が広がる丘陵地帯で、2人は斜面のカフェで地産のワイン、パン、チーズを嗜み、意気投合したのだった。

 

f:id:motobei:20210308152149j:plain写真は2人が出会ったラヴィ―のカフェ(「ストラヴィンスキーの思い出」泰流社の表紙)

 

「兵士の物語」は、純朴な農民が徴兵され、休日に帰郷する道すがら、悪魔のささやきに乗ってしまう悲劇を、簡単なストーリーにしているのだが、興味深いのは「恐怖の山」も、同じような純朴な若い男女が、結婚に向けてのお金を得んがために、悪魔のささやきに乗ってしまう悲劇だった。

 

 小説に出てくるスイスの貧しい村は、牧畜で生計を立てている。山の上に広い平地があるが、20年前にそこで悲劇的な出来事があり、以来タブーの地となっていた。山の神を怒らせたため起きたとの言い伝えが信じられていた。

 経済効率を重んじる若い村長は、迷信だと言い張る。村民が飼育する牛をその禁足地に3か月放牧すれば、経費は削減、収入も上がると村民を説得。牛を運び、現地で世話をする7人を募集して、山に派遣することに決定した。純朴な男も、お金のために結婚相手を説得して志願した。

 

 牧場で、まず牛に異変がでる。口蹄疫の発症だ。牧場の家畜ばかりか人間たちも村から遮断隔離される。牛の伝染は広がり、7人の精神状態が不安定になってゆく。連鎖する惨劇が、ぎらぎらする太陽と夜の闇、山岳、天、雲、霧などのリアルな自然表現を交えながら描かれる。

 

 ラストは氷河の後ろにたまった水が氷河を崩落させ、濁流が村を襲うカタストロフィー。純朴な男女も、村長以下村民はすべてが一連の惨劇、悲劇で命を奪われる。

 

 スイスロマンドの自然と暮らしを描いてきたラミュが、第一次世界大戦スペイン風邪の惨劇の体験を踏まえ、壮大な「黙示録」に仕立て上げたように、私には思えた。

 

 「兵士の物語」にこだわった解釈をするとー。小説には、不気味な男が描かれていた。誰も応募がないときに、一番に志願に現れた信用ならない男。牧場でも和を乱し、勝手な振舞いをする。ラミュは、この男をただ一人、この惨事を生き延びたと暗示している。この男こそ「悪魔」の化身ではないか。

 ラミュは、邦訳がぽつぽつ出だしているようだった。もっと読みたくなってくる。

 

 

 

ヒキノカサが咲いた

  朝、細が声を上げている。

 足を運ぶと、鉢を持っている。

 

 ヒキノカサの花芽からついに小さな黄色の花が開いたのだ。

 

f:id:motobei:20210227164036j:plain

 

  昨年10月24日の山野草の展示会に付き合って、蛙の形の葉っぱが気に入って買ったものだ。キンポウゲ科の植物だった。

 

f:id:motobei:20210227124448j:plain

 

 11月18日、鉢に植え替えると、茎が増えて元気に成長していった。寒気を心配して夜だけ玄関に取り込んでいたが、正月過ぎて枯葉が目立ってきて、一時はこのまま枯れてしまうのかと覚悟した。

 

 細は、家に取り込まないで夜間も外気にあててみようというので、従った。暖かい日となった数日前に、花芽が4つ付いた。花芽のある茎は他の茎と違って長く、葉の形も違っていたので、ひょっとして、違う草花が紛れたのかもと疑った。

 

 今朝、それがヒキノカサだと証明された。4-5月に開花すると「日本の野草」(83年、山と渓谷社)に記されていたが、2月27日に早々と一番目の花が咲いたことになる。

 

f:id:motobei:20210227124802j:plain

 手に入れた時、なぜヒキノカサ、蛙の傘という命名か、気になったのだが、今日あらためて思ったことがある。

 花の茎は、他の茎と違って、長く上方に伸びていて、さながら花は、「蛙の葉」たちにとっての「黄色の傘」になっていることだ。

 

 蛙が住む水辺に咲く花なので、この名がついたとされる。「この名は蛙の住む湿ったところに生え、花を蛙の小傘にたとえたもの」(松田修氏)という通説に、ちょっと異論を唱えてみたくなった。

 沢山の葉の蛙たちの頭上で輝いている黄色の傘。花はこれから次々に開花してゆく。わが家にも春が来たようだ。

 

 

 

1917年ローザンヌのカフェで

 休日に、ストラヴィンスキー「兵士の物語」のLPを、翻訳台本に目を通しながら聴いた。第一次世界大戦下に、ストラヴィンスキーが手掛けた作品だ。

 ナレーションや台詞が多く、音楽が少ないので、猫のいる古レコード店で手に入れた後、うっちゃっていたのだった。

 

f:id:motobei:20210225231058j:plain

 

 あらためて聴くと、この時世にヒントを与えてくれそうな興味深い作品だった。

 

 1917年、戦火を避けてスイスで暮らしていたストラヴィンスキーは、とうとう金欠状態になった。ベルリンの出版社から届くはずの印税が途絶え、さらにロシア革命のせいで母国の資産が凍結され、送金が止まってしまった。

 1913年「春の祭典」の作曲で、欧州を席捲したロシア・バレエ団の重要な一員だったが、当のバレエ団も同様に革命で混乱していた。主宰のディアギレフにも頼れない状況だった。

 

 35歳のストラヴィンスキーは、スイス・ローザンヌのカフェで、同じように懐具合が寂しいスイス生まれの作家C・Fラミュ(39)、指揮者アンセルメ(34)と顔を合わせては頭をひねったという。

 

 生まれたアイディアは、お金のかからない小さなトラベリング・シアターだった。出演者、演奏者、スタッフを最小限に減らして、各国を回る案だ。

 

 ストラヴィンスキーは、アファナーシェフが採集したロシア民話をもとに、登場人物が少ない、悪魔の餌食になる兵士の悲劇を提案した。共感したラミュがそれを基に、フランス語の台本を完成させた。悪魔に影を売った男(シャミッソー)や、悪魔に魂を売ったファウストゲーテ)のバリエーションでもある。

 出演者は3人、うち1人はバレエを踊る。演奏は弦2,金管2,木管2、打1の計7人の小編成に抑えた。

 

 兵士と悪魔の会話と、ナレーションによる展開。後半で登場する王女は踊りを披露。音楽は延べ14曲演奏される。タンゴ、ワルツ、ラグタイムの舞踏曲もあり、もうひとりの仲間オーベルジョノワの美術も含め、斬新な舞台が出来上がったようだ。制作費用はパトロンを探し出し、18年秋スイス・ローザンヌの劇場でアンセルメの指揮で初演し、成功した。

  第1次大戦は、これまでの戦争とは全く違った悲惨なものだった。毒ガス、戦車、飛行機、潜水艦が初めて用いられ、欧州は戦禍で混乱していた。さらに追い打ちをかけるようにスペイン風邪が大流行。スイス国内を回る予定も、スタッフが罹患して中止。思惑は完全に外れてしまった。

  しかし、ローザンヌのカフェでの会話から、大きなものが生まれたのは間違いない。「兵士の物語」はやがて各国で出版され歴史に残った。アンセルメも上演に際して、スイス・ロマンド管弦楽団を創設。ともにスイスを代表する指揮者、楽団に育っていった。

  では、ストラヴィンスキーが自伝で、感謝を惜しまなかった作家ラミュはその後どうなったのか。「兵士の物語」のラミュの台本については、作曲家の柴田南雄は「他愛ない大人向のお伽噺」として一言で片づけている。(「現代音楽」修道社)。

  カフェで、ストラヴィンスキーがスケッチしたラミュの肖像(LPのジャケットに使われてる)を眺めながら、ラミュについても、コロナが収まる前までには、なんとか見極めなければと思った。

 

 

 

ストラヴィンスキーからアテネ五輪開会式へ

 五輪大会で開催国のトップとして女性が仕切ったのは、2004年のアテネ五輪が初めてだった。1955年生まれのGIANNA ANGELOPOULOS-DASKALAKIという当時40代後半の女性が腕をふるった。

 政治家で、開会式ではIOCロゲ会長に比しても堂々とスピーチし、存在感の大きさを今でもYOUTUBEで確認することができる。

 

f:id:motobei:20210218155304j:plain

 私が、アテネ五輪の開会式にいままた関心をもったのは、作曲家ストラヴィンスキーハーヴァード大学での講座をまとめた「POETICS Of MUSIC」(初版は1942年)を読み直していて、70年の版から追加された序文があまりにしっかりとした文章なので、筆者のGEORGE SEFERIS(イオルゴス・セフェリス)の人となりに興味を持ったからだ。ノーベル文学賞(63年)を受賞したギリシャの著名な詩人で、外交官の傍ら、オデッセイなどギリシャ古典へアプローチを試み、改めてギリシャ神話世界のもつ大きさを伝えた人だった。

 

 彼の詩「mythistorema3」がアテネ五輪の開会式で朗読されたのだと知って、YOUTUBEで開会式を見たのだ。この詩の朗読の後、ギリシャ神話を基にしたパフォーマンスが繰り広げられていた。

 「I woke with this marble head in my hands」(英訳)で始まる一節で、

 私は両手にこの大理石の頭部を持って目覚めた。/私の肘は疲れ切ってしまったが、どこにそれを置けばいいかわからない。/私が夢から覚めて出てきたとき、それは夢の中に落ちてきたのだ。/それで私たちはひとつになり、もはや分かちがたくなっている。

 と続く。

 アテネの開会式の音楽には、ギリシャの作曲家以外に、思いがけない曲が使われていた。聖火登場には、ドビュッシーの「リア王のファンファーレ」、聖火台点火では、ショスタコーヴィッチの映画音楽「ピロゴーフ」の一節。

 ドビュッシーは「牧神の午後」など、ギリシャ神話への関心は強かったが、ショスタコーヴィッチのロシアの外科医をテーマにした音楽は、ギリシャとどうつながるのか。演出者の意図があったのだろうが分からない。

 

 YOUTUBEで、部分部分飛ばしつつ17年前の開会式を見ながら、開催のあてもままならないTOKYO2020の開会式の演出を、今も組み立てている人がいるのだろうな、と想像してみた。

 

 

鞍馬山の領収書印

 

 神田には、関東大震災直後に建てられた古い建築の居酒屋があり、昼を食べに行く。

 高い天井の下、土間に据えられた大卓で、焼き魚などを食べる。

 昼は静まり返っていることが多い。

 

 コロナ自粛の前は、夜は酔客であふれ、店外に列が出来るほどだ。近くの蕎麦店で飲んでいた時、フランス人男女の観光客が蕎麦屋に入ってきて、「この店は近くですか?」とその居酒屋までの道順を聞かれたことがあった。なんでここに入って聞いたのか尋ねると、「店の外観の雰囲気が似ていたので、多分知っていると思った」とのことだった。

 ちゃんと行けたか気になったので、蕎麦屋を出た帰り、居酒屋を覗いてみると、畳の部屋にちょこんと坐って、日本人客と馴染んで、日本酒を飲んでいた。

 

 その居酒屋の領収書印がずっと気になっていたので、きょう、思い切ってご飯をよそってくれているおかみさんに聞いてみた。

 

f:id:motobei:20210204155303j:plain

 

「なんでお店の印が、鞍馬山のハンコなんですか」

「あはは、あれは京都の鞍馬山に行ったときに、父がお土産で買ったものなんです」

 店の領収書印は、店が使っていると分かればどんなハンコでもいいのだという。それで、鞍馬天狗鞍馬山―。

「えっつ、ハンコのことを聞いてくるの、お客さんが初めてですよ」と不思議がられた。

 

 領収書をよく見ると、「鞍馬山福寿印」とある。福寿印ってなんだ。鞍馬山には、鞍馬七福神を祀る社が5つあり、その中に「福寿星神祠」がある。福禄寿と寿老人を祀っている。ハンコはきっと、この祠の御利益に関連したものだろう。領収書を受けとる方も縁起が良い。

 祠は鞍馬寺本殿金堂に至る九十九折参道に、他の七福神らのものとともに建っているのだった。汗かきかき苦しんで登った記憶しかない私は、祠のことなどは覚えていない。

 

f:id:motobei:20210204155530j:plain

 印は、「馬」の書体が馬の絵のようで面白い。いまでも、土産売り場で売っているのだろうか。

 旅行もままならず、久しく行っていない京都が妙に恋しくなった。

 

 

節分、立春大吉、初雷の鬼退治3点セット

 秩父の観音霊場の札所で、裏の岩山を家族でひーひー言いながら、登ったことがある。修験者たちの修行の名残を感じさせる、ちょっとしたロッククライミング体験だった。

 降りた後、境内を散策したが、庫裡の玄関に「立春大吉」の札が貼られていた。曹洞宗寺院もこの札を貼るのだ、とカメラに収めた。

  

f:id:motobei:20210128140152j:plain

 

 節分の翌日が立春

 

 節分に「鬼は外」と豆をまかれ、家を追い出された鬼たちが、翌日の立春に家に戻ろうとしても、玄関に新しい「立春大吉」の札が貼ってあれば、入って来られないという代物だ。

 

立春大吉」の文字は、4つの漢字とも左右対称なので、表から見ても裏から見ても「立春大吉」。鬼が玄関に貼られたこの符を見ると、入口なのか、出口なのか混乱して、結局入って来られないらしい。

 

 豆まきと立春大吉は、セットで初めて効果があるということになる。

 

 もうひとつ、気になることがある。

 

 長野県の松本市の周辺に豆まきと関連した、初雷の年中行事があることだ。

 

節分の豆は初雷の日に出して食べる、何の故かわからぬ雷除のまじなひらしい」(「郷土研究」2巻2号、大正3年)。

 

f:id:motobei:20210128140309j:plain

 

 初雷は、立春の後、初めて鳴る雷のことをいう。はつがみなり、とも、はつらい、とも呼ぶ。

 

 おそらく、家から出て行った鬼が空で騒ぎ出すのが、初雷なのだろう。

 

 初雷のごろごろと二度鳴りしかな  河東碧梧桐

 初雷の二つばかりで止みにけり   正岡子規

 

 長い雷鳴でなく、1、2回きりのあっさりとした雷のようだ。

 

 節分の豆を食べれば、鬼が騒いで起こす雷除けになる、ということならば、

 

 今年は我が家でも

 2月2日の節分に豆まき、

 2月3日の立春の朝に自分で書いた「立春大吉」の札を貼り、

 豆は取っておいて、初雷の時にまた食べる。

 

 この3点セットで鬼退治しようかと思う。