1917年ローザンヌのカフェで

 休日に、ストラヴィンスキー「兵士の物語」のLPを、翻訳台本に目を通しながら聴いた。第一次世界大戦下に、ストラヴィンスキーが手掛けた作品だ。

 ナレーションや台詞が多く、音楽が少ないので、猫のいる古レコード店で手に入れた後、うっちゃっていたのだった。

 

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 あらためて聴くと、この時世にヒントを与えてくれそうな興味深い作品だった。

 

 1917年、戦火を避けてスイスで暮らしていたストラヴィンスキーは、とうとう金欠状態になった。ベルリンの出版社から届くはずの印税が途絶え、さらにロシア革命のせいで母国の資産が凍結され、送金が止まってしまった。

 1913年「春の祭典」の作曲で、欧州を席捲したロシア・バレエ団の重要な一員だったが、当のバレエ団も同様に革命で混乱していた。主宰のディアギレフにも頼れない状況だった。

 

 35歳のストラヴィンスキーは、スイス・ローザンヌのカフェで、同じように懐具合が寂しいスイス生まれの作家C・Fラミュ(39)、指揮者アンセルメ(34)と顔を合わせては頭をひねったという。

 

 生まれたアイディアは、お金のかからない小さなトラベリング・シアターだった。出演者、演奏者、スタッフを最小限に減らして、各国を回る案だ。

 

 ストラヴィンスキーは、アファナーシェフが採集したロシア民話をもとに、登場人物が少ない、悪魔の餌食になる兵士の悲劇を提案した。共感したラミュがそれを基に、フランス語の台本を完成させた。悪魔に影を売った男(シャミッソー)や、悪魔に魂を売ったファウストゲーテ)のバリエーションでもある。

 出演者は3人、うち1人はバレエを踊る。演奏は弦2,金管2,木管2、打1の計7人の小編成に抑えた。

 

 兵士と悪魔の会話と、ナレーションによる展開。後半で登場する王女は踊りを披露。音楽は延べ14曲演奏される。タンゴ、ワルツ、ラグタイムの舞踏曲もあり、もうひとりの仲間オーベルジョノワの美術も含め、斬新な舞台が出来上がったようだ。制作費用はパトロンを探し出し、18年秋スイス・ローザンヌの劇場でアンセルメの指揮で初演し、成功した。

  第1次大戦は、これまでの戦争とは全く違った悲惨なものだった。毒ガス、戦車、飛行機、潜水艦が初めて用いられ、欧州は戦禍で混乱していた。さらに追い打ちをかけるようにスペイン風邪が大流行。スイス国内を回る予定も、スタッフが罹患して中止。思惑は完全に外れてしまった。

  しかし、ローザンヌのカフェでの会話から、大きなものが生まれたのは間違いない。「兵士の物語」はやがて各国で出版され歴史に残った。アンセルメも上演に際して、スイス・ロマンド管弦楽団を創設。ともにスイスを代表する指揮者、楽団に育っていった。

  では、ストラヴィンスキーが自伝で、感謝を惜しまなかった作家ラミュはその後どうなったのか。「兵士の物語」のラミュの台本については、作曲家の柴田南雄は「他愛ない大人向のお伽噺」として一言で片づけている。(「現代音楽」修道社)。

  カフェで、ストラヴィンスキーがスケッチしたラミュの肖像(LPのジャケットに使われてる)を眺めながら、ラミュについても、コロナが収まる前までには、なんとか見極めなければと思った。