大正13年に発行された日本木版画粋を整理していたら、「鼠と瓜」の版画があった。
中国は13世紀、宋末元初に活躍した文人画家銭舜挙の作品として紹介してあり、日本にある銭の代表作と記してあった。銭は、今は「銭選」の名で通っている。
瓜の中身を親鼠が齧っていて、子鼠3匹が瓜の外で、親鼠が食い散らかしている瓜の欠片を食べているという図柄。
ネットで探して、現在は国立文化財機構所蔵の重要文化財であることが分かった。ただし、銭選作でなく、「銭選印」の「鼠図」という別表記に変わっていた。銭選には、模作、贋作が多く、銭選の印はあるものの、本人の作とは断定できないから、この表記らしい。
本人作ではなくても、作品は動物画として当時の表現力、技量の高さを十分に伝えているので、重文指定なのだろうか。
さて、この絵、どこかで見たぞ、と頭を巡らせると、前に俳句誌「笛」の口絵で紹介した版画家関野準一郎のカットと気づいた。
やはり鼠が瓜を食べている様で、子鼠はいないが、ほぼ構図は一緒だった。編集者から鼠の絵の依頼があり制作したものと、後記に記されている。
単なる模作だったか。いやいや、それは分からない。銭選は、絵とは別の評価があるからだ。日本木版画粋の解説には次のように書いてある。
≪(銭と交流のあった宋の文人画家の)趙孟頫(ちょうもうふ)が元に仕へて顕官となりしより人皆な之に附従して一身の富栄を求むるも舜挙独り昂然として自ら詩画に耽り以て其の身を終ふ亦画品の超凡なるを知る可きなり。≫
宋が元に滅ぼされた後、宋の文人画家たちは、湖州の呉興に移住して活動していたが、趙が元のフビライ汗の招きに応じると、呉興の文人画家たちもこぞって趙の後を追って元朝の役人として仕えるようになった。
銭は独り初志を貫いて、詩作、画業に専念して生涯を終えた、というものだ。
件の掲載誌「笛」は、昭和24年発行のものだった。版画家が、敗戦後一変した社会の中で、鼠を描いたのではなく、銭選を択んで書いたところに眼目があるのかもしれない、と思った。青森市生まれの関野はこの後、スイス、米、スロベニアの国際版画展で受賞し、米の大学で版画を教える国際派の版画家となった。
銭選同様、群れたり、流されることを好まない人だったのではないか。
よく見ると、この鼠、動きがあって、逞しそうに描かれている。版画家関野準一郎のことも知りたくなってくる。