墓とニューヨークについて

「鼠」の版画を見て、版画家関野準一郎に関心を持ったと、前に書いた。その後、店仕舞いした本郷の古書店で、画伯の画文集「街道行旅」(昭和58年、美術出版社)を見つけた。勘定すると、おかみさんは「関野さん」と懐かしそうにつぶやいた。中川一政にも詳しかったおかみさんは、美術家と縁が深そうだった。

 

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 画文集で、目を惹かれたのは、定評ある東海道や故郷青森の風景画でなく、「墓とニューヨーク」と題された木版画。ニューヨークの墓場から遠く超高層ビル街を望む構図だった。

 

 画伯は、好んで墓の絵を描いてきた、と記していた。しかし墓の絵は売れない。

 

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 昭和34年、「麦と兵隊」「花と龍」の作家火野葦平が、米国訪問記「アメリカ探検記」(雪華社)を上梓することになり、関野に装幀を依頼してきたという。

 火野がNYの摩天楼の光景をさながら巨大な墓場だ、と書いた箇所を見逃がさなかった関野は、新刊の表紙、裏表紙に、ニューヨークの墓の絵を用いることを決めたのだった。

 「(NYの)クインにある墓地から見る国連や、ハドソン広場のメトロポリタン・ビルディングを望んだ時は、何か胸苦しい程、その景観に感激した」と振り返っている。「ジェファソン時代からアメリカを作り上げた人々の眠っている所を、それこそ様々な思いをこめて沢山のデッサンを描いた」。

 

 私は、ちょっと気になって「アメリカ探検記」を古書店から取り寄せた。終戦公職追放された火野ではあるが、米ソのほか海外で多数の著作が翻訳され、日米安保改定を前に、米国務省から招待を受けたのだった。

「巨大な墓場」の一節は、通訳に連れられて102階のエンパイア・ステートビルに登った時のものだった。

「頂上は風が強いが、四周の景観は悽絶無類である。ニューヨークはまるで墓石や卒塔婆や位牌が無数に立ちならんだ巨大な墓地だ。南方の海上に、自由の女神像が浮いている」

 屋上からビル群を望みながら、火野は「悪魔になって、残忍な空想に耽」る。米国はいまだ核実験を続けているが、米軍が広島や長崎にしたように、この上空に核がー。

「ラムスデンさんは(マンハッタン島は)地震がないのでどんな高層建築でも建てられるといったけれども、自然よりも人間の方が恐ろしいのである」と。

 

 感情が高ぶっている火野に対して、関野の版画は、鎮魂の絵のようだ。

 

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 火野はこの墓の木版画が大変気に入り、出版後2点購入したいと申し出があった、と関野は書いている。「東京の宅と九州の宅に一枚ずつ懸けたいというのである」。当時、火野は、故郷北九州・若松と、阿佐ヶ谷の自宅を隔月行き来していた。

 

 ところが、翌年1月作家は突然死した。52歳だった。死因は心筋梗塞とされたが、没後12年経って、睡眠薬自殺であると発表された。

 すでに芽生えていた火野の決意が、この版画をひきよせたのだろうか。古本の裏表紙の絵を見ながら、私は竦んでしまった。