熊が歌った「本当になくてはならないもの」

  大分前になるが、コロナ流行のさなか、英国のラジオタイムズ誌がディズニーアニメに関するアンケート調査をした。英国人に影響を与えたディズニーアニメのことが伺えて興味深かった。

 「The biggest tearjerker」もっとも涙を誘った作品は「バンビ」。これは、日本でもそんなに違わないだろう。

 

 「Uplifting song」元気にしてくれる歌は、少し意外だった。

  67年公開「ジャングル・ブック」の「ザ・ベアー・ネセシティ」(the bare necessity)だった。米ペンシルベニア生まれのフォーク歌手ギルキソンが作詞作曲をしたデキシーミュージック。

 

 オオカミの家族と暮らす人間の子供モーグリに、教育役の熊のバルーが、生きるヒントを軽快に歌って聞かせる。

生きる上で、なくてはならないものを探しなさい。なくてはならない単純なものを。心配事、いさかい事なんて忘れちゃいな」

「絶対なくてはならないものだけが、大事なのさ」

 

 英国人の多くが、熊のバルーの楽観的な歌に励まされてきたのだった。

 

「I mean the bare necessities、that’s why a bear can rest at ease」

 熊が気楽に生きてこられたのは、そんな生き方をしてきたからだと、バルーは教えている。

 

 

 翻って、日本で最近、北陸のスーパーに子熊が逃げて立てこもったニュースや、撃ち殺されるニュースをよく聞くようになった。熊の現実とアニメや歌の世界の落差を考えさせられてしまうのだ。ちなみに、英国に野生の熊は生息していない。1500年前に、絶滅してしまったそうだ。

 

 

 

 

 

平鯛クッキング

 魚屋で、「三重・平鯛」と書かれた店のお勧めの魚を買った。店のお兄さんが「下ろしましょうか」というので、「このままで結構。うちで三枚におろしますから」と、太った一尾を選んだ。

 

 鱗取で鱗を取り、包丁で取り残しを探す。腹に切れ目を入れ、腸を取り、頭を落とす。三枚におろした切り身は、骨抜きで小骨を抜き、抜き残しがないか指で確認し、布巾で覆い、上から熱湯を注ぎ、すぐ氷水に入れて〆、霜皮作りにした。頭はさらにぶち切って潮汁を作った。

 

 別に親子丼を作って、刺身とアラ汁で、休日の夕餉とした。

 

 細は、「刺身は上々だが、小骨が残っている。アラ汁と親子丼はよくできました」という。料理修業中なのだ。

 

 私は、平鯛がなんであるか調べ、三重のどこの漁場で獲れたのか想像してみた。

 平鯛はヘダイ、マナジなどとも呼ばれ、秋から春にかけて、とりわけうまいのだという。タイの仲間にしては値段が安い。消費者に名が知られていないので需要が少ないためらしい。

 三重の漁場はおそらく、熊野灘だろうと想像してみた。那智の滝熊野三山をはるかに望む熊野灘で泳いでいた一尾と、近所の魚屋で偶然出会い、食べたのだと。

 

 押し入れから出てきた猫に、骨からこそげとった身をあげたが、食べなかったので、冷蔵庫に入れて、翌朝私が食べた。脂が乗ってさっぱりして、クセのないいい魚だと思った。

 

象のイラスト入り判子

 江戸時代後期、江戸神田の粉屋に生まれた石塚豊芥子(1799-1861)は、古書の収集に精出し、山東京伝ら当時の売れっ子作家と付き合う文人だった。

 文化10年(1813)年に長崎の出島に到着した象に関心を持ち、100年ほど前の享保年間に渡来した象の事も併せて書き残した。

f:id:motobei:20201016170139g:plain

 自らの蔵書印に、象の絵を彫ったものを拵えている。よほどの象マニアだったようだ。印を見ると、隅丸の縦長の長方形の上部に「芥豊」の文字、下部に左を向いた象の側面が描かれている。象を蔵書の「蔵」と掛けたのかもしれない。

 日本に一大象ブームを起こした、享保年間渡来の象は、将軍吉宗が注文し、中御門天皇にも謁見し「広南従四位白象」の名もある。民間に払い下げられ、22年間も日本で暮らしたため、よく知られている。

 

 一方、文化10年渡来の象は、80日間ほど長崎に居て、幕府から受け取れないと返事があり、船で返されてしまった。しかし、豊芥子だけでなく、広く注目を浴びたようだ。長崎の御用絵師が写生して、長崎版画で売り出した。

 大正8年7月号「歴史地理」に、この象のことが書かれていた。文化12年、静岡浅間神社に象図が奉納されており、象は文化10年の象だった。

 

f:id:motobei:20201016170334j:plain

 解説を書いている考古学者・上田三平によると、象図には、出島商館長へんでれきどうふ(ヘンドリック・ドゥーフ)の自著のある蘭文、訳文が書かれていて、訳文には象は斎狼島生まれの5歳で、蘇門大剌島の巴蘭蕃で手に入れた象とある。セイロン島生まれ、スマトラ島パレンバンで飼われていたのを運んできたのだった。

 

 さらに、文化12年9月付で江芸閣(長崎に度々来訪した清の商人であり文人)の署名があり、藤原充信という人物に長崎・崎陽唐館で贈ったことが記されている。おそらく充信が静岡浅間神社に奉納したのだろうと、上田は推測している。

 

 調べると、象を運んできたのは、オランダ船を偽装した英国船だった。オランダ支配のジャワ島を占拠したイギリスのジャワ副総督ラッフルズが、その勢いで出島のオランダ商館の乗っ取りも図り、フェートン号事件に次ぐ第2弾として、シャーロット号、マリア号を出島に送り込んだのだ。なぜか、象を乗せていた。この辺の事情がどうも分からない。

首里之印、普猷の印

 書棚にある伊波普猷の「古琉球」(昭和17年)を開くと、大きな印章の写真が掲載されている。

 

f:id:motobei:20201012150002j:plain

 清の康熙帝からの冊使が、琉球国王に送った「琉球国王之印」。

 

 清と琉球国間でやり取りする文書で使用するものだ。国王の尚質(1629-1668)が、康熙帝に新しい印綬を求めたのに応え、康熙元年(1662)に冊使を派遣して届けたのだった。

 

 左が満州文字、右側が漢字の「篆字」。

 ともに、「琉球国王之印」と彫られている。

 

 大きいし見事なものだ。実物大とされているのを信じると、縦9.8㌢、横10.2㌢ある。

 

 満州文字は、モンゴル文字を基にしていて、文字もそっくりで、左からの縦読み、一字ごとに間を開けて表記するのも一緒だ。満州語は分からないが、モンゴル語の読みでも、

 

 (左)琉 球 国 ノ (右)王 ノ 印

 

 と記されているのは分かる。

 

 満州人の国家である清は、康熙帝のころから漢文化を重んじるようになり、乾隆帝に受け継がれる。ともに、印章を好み、大きなものを作った。康熙帝の考えは、この琉球国王印を通しても伺われる。

 

f:id:motobei:20201012150057j:plain

 伊波は、同書の次のページに、「首里之印」も掲載している。

 こちらは、琉球国内の文書で用いられたのだという。清国の影響なのだろうか、負けず劣らず大きな印章だ。(縦9.7㌢、横9.4㌢)

 

 最近、ケレン味たっぷりのオトドが、ハンコについてあれこれと語っているが、天皇陛下の御璽はどうされるおつもりなのだろうか。

 

f:id:motobei:20201012150151j:plain

 

 ちなみに、伊波普猷の検印は、IとFを組み合わせたものだった。

 私の好みでは、長谷川如是閑のアルファベット印といい、印章にはそぐわないような気がしている。

 

 

 

 

 

昭和初めの公衆食堂のメニュー

 神田橋の公衆食堂 夕食 十五銭

 メニュー①薩摩汁/丼飯/青菜お浸し/大根漬物3切

 薩摩汁「から味噌で、少々閉口したが、中味が貧弱だ。油あげと大根の他にもう少しなんか入れて置いて欲しい」

 青菜お浸し「お浸しは結構だが、これも余りに軽少すぎる」

全体評価「これで十五銭は決して安くない、第一夕食として栄養価が充分かどうかも疑いたくなる」

 メニュー②肉うどん

 「汁が馬鹿に塩辛い。肉は比較的沢山のせてあるが風味と云うものゼロ」

 

f:id:motobei:20200928161250j:plain

 

 復刊された昭和4年発行の「東京名物食べある記」の内容の一部分だ。関東大震災後の焼け野原に次々に誕生した「公衆食堂」「平民食堂」「簡易食堂」の安食堂が紹介されていて興味をひかれた。時事通信の家庭部の記者が、昭和初め東京の名物食堂の食べ歩きをし、一冊の本にまとめたものを、教育評論社が復刊したものだ。

 

 今から見ると、まずいものはまずいとはっきり書いているのが面白い。

 

 15銭はどのくらいの価値があるのか。昭和5年の物価を見ると、お汁粉が15銭、牛乳が6銭、ラーメンが10銭、すし25銭、豆腐5銭。お汁粉と同じ価格。米価比較(昭和10年-令和2年)でみると1910倍。

 大まかではあるが、公衆食堂の15銭は、287円くらい、大体300円見当か。

 

 堺利彦「桜の国・地震の国」(昭和3年)を見ると、(100円本で、神保町の古本店に出ていたので買ったのだ)、ここにも震災直後の牛込神楽坂界隈と、神田昌平橋の公衆・簡易食堂の体験記が載っているではないかー。

 

 東京市公設 横寺町公衆食堂

   朝6-8時    12銭 

   昼11-13時  15銭 

   夕5-8時    15銭 

 メニュー まぐろ刺身/茹でた唐菜(とうな、アブラナの変種)/丼飯

  まぐろ刺身「色が黒い」

  茹でた唐菜「相当うまい」

  丼飯「分量多い、米存外いい」

  堺の評価は結構高い。

 

 神田慈善協会経営 昌平橋簡易食堂

  朝、昼、夕 10銭 (200円見当か)

  メニュー こんにゃくの味噌まぶし/丼飯/沢庵2切

 室内印象「室が狭い、光線が少い、風通しが悪い。食卓も器具も皆きたない」

 丼飯「蓋をとるとプーンと匂いがする。即ち外米の匂いである」

   「ボソボソして幾ら噛んでも飲みくだしにくい」

 こんにゃくの味噌まぶし「蒟蒻を一つ口に入れて見たが、水臭いばかりで味が無い」

  

 「純粋の労働者」たちが「飯を掻きこんでゐる」様子を見ながら、社会主義者堺利彦は「小さな貴族たる私は飯を二箸三箸食って、沢庵を一片かぢり、湯を一杯のんだだけで席を立った」と記している。

 

 食堂から時代の空気も見えてくる。「東京名物食べある記」には、帝劇、歌舞伎座新橋演舞場明治座など、当時の劇場内の食堂も出てくる。

 

 

 

 

定着した「カチコシ」

 出勤しない日は、大相撲秋場所をTV観戦して楽しんでいる。

 

 両横綱が休場しても、休場したなりの楽しみがあるものだ。伸び盛りの下位力士(翔猿、若隆景)が活躍し、賜杯争いを面白くしている。力を抜いた怪しげな土俵も見かけない。ガチでぶつかっている関取たちの姿は気持ちがいい。

 

 モンゴル紙のWEBサイト「newsmn」を見ると、先場所復活優勝したウランバートル出身の照ノ富士を中心に見出しが立っていた。

 

 11日目も、83敗した照ノ富士がメーンで、写真は貴景勝と宝富士の一番だが、「照ノ富士=ガンエルデネが勝ち越し」という見出しだった。

 

f:id:motobei:20200924122553j:plain

 

「KAЧИKOШИ」(カチコシ)と表記され、モンゴル語のなかで外来語として「勝ち越し」という日本語が完全に受け入れられたのも興味深い。(大リーグで「サヨナラ」と日本の野球用語が取り入れられたときのことを思い出した。)

 

 モンゴル勢は、両横綱を除くと、復活した照ノ富士がもっとも期待が高く、ついで一足飛びに、新顔の霧馬山(途中休場)、豊昇龍(朝青龍の甥)の元気の良さに目が行ってしまう。

 

 玉鷲は頑張っているが、力を持った逸ノ城、東龍、旭秀鵬、千代翔馬は幕尻、十両でウロウロとして物足りない。

 3敗の照ノ富士が、貴景勝、正代らの賜杯争いに絡んでくるのか、モンゴルの相撲ファンも残り4日となった秋場所を見守っているようだ。

 

 

 

 

 

薬師寺東塔に登った57歳

 江戸時代に、大和薬師寺の東塔の屋根に登った屋代弘賢の「金石記」を探して、アーカイブを覗いてみると、同書に合わせて松崎慊堂(こうどう)の「大和訪古録」が収録されていた。

「大和訪古録」には、屋代が屋根に登った37年後に、慊堂一行もまた東塔に登っていた事が記されていた。

 

 2人の行動を比較すると

     屋代          松崎

 年齢  34歳          57歳

 訪問年 1792       1829

 月   12月          8月

 随行  自ら銘を写す   弟子が拓本とる

 

 「大和訪古録」で、慊堂は、「余往親睹使佐藤生搨摹」(私は行って近くで見、佐藤生に拓本をとらせた)

「仰瞻搨者、在露盤上、心悸足顛、至今猶未已也」(拓本をとる様子を仰ぎ見、露盤の上で、心臓がバクバクし、足はガクガク震え、今も思い出すと震えが止まない)と記している。

 弟子が拓本をとるのを、慊堂も相輪の露盤の上で仰ぎ見たと私は解したのだった。

  

 屋代の時のように、冬の小雨の中でなく、8月(太陽暦9月)の良い季節に、佐藤安器という弟子を伴って登り、拓本も弟子に取らせたとはいえ、協力して墨、刷毛、紙、タンポ、水と道具を持って上がったものだと解釈した。

  50代後半ながら危険を冒して地上23㍍の露盤の上に登ったのは驚くべきこと。屋代を諫めた柴野栗山と、同じような歳で、正反対の行動をとったわけで、同じ儒者ながら、考証学に進んでいった慊堂の探求心のなせるわざなのだろう、と感心した。

  

f:id:motobei:20200918221141j:plain

           =「大和訪古録」(右)と「慊堂日録2」(東洋文庫)=

 

 念のために、慊堂の日記「慊堂日暦2」で、文政12年8月23日の項を見てみた。

「招堤を経て薬師寺法輪院に入る。院主の接待は頗る厚し。導かれて六層塔を観る。塔上の刹柱に銘あり。佐藤安器は上り搨す。余は和田生と仏足石碑及び歌碑を搨す」

 弟子の佐藤が東塔の上で拓本をとる間、慊堂らは地上で仏足石や歌碑の拓本をとっていたとだけ記している。