薬師寺東塔に登った屋代弘賢

 相輪の伏鉢の銅板銘を確認するため、命綱をつけて寛永寺五重塔の屋根に上った浦井正明寛永寺執事長の話を前に書いたが、江戸時代寛政年間に、相輪下部の銘文を観察するために大和の薬師寺東塔の屋根に果敢に登った国学者がいた。

 私は、今頃になってそのことを知った。

 

 神田明神下で生まれた幕臣の屋代弘賢(1758-1841)。未完に終わった560巻の類書(一種の百科事典)「古今要覧稿」を幕命でものしたエンサイクロペディストだ。

  寛政4年(1792)幕府の畿内寺社宝物調査に随行した折、東塔の相輪を支える檫柱に刻まれた銘文を見るため、屋根によじ登ったのだった。弘賢34歳の時だった。

 

f:id:motobei:20200916124429j:plain =三宅米吉著述集下から=

 

 この時の様子を歴史家の三宅米吉が若き頃に「薬師寺ノ薬師銅像」(明治21年8月「文」)の中で描いていた。

 

屋代弘賢ト云フ歴史家柴野栗山ニ随行シ山城大和ノ寺社ニ所蔵スル古文書類ヲ取調ベシコトアリ。其ノ時弘賢此ノ擦銘ヲ面ノアタリ見マ欲シト思フ心切ニシテ塔頂ニ登ラント云ヘ(リ)」。

 当時50代半ばの、幕府お抱えの儒学者、柴野栗山は大反対した。

 

危シ、止メヨ、父母ノ遺体ヲ憶ハズヤ

 (危険なことはやめよ、両親が残してくれた自分の体のことを忘れたのか)。

 

トテ、推シ止メケレドモ、弘賢思ヒ止マラズ、潜カニ小僧ニ案内サセテ登リケルガ、時ハ十二月折シモ小雨降リテ寒気肌ヲ刺スバカリナルニ狭キ梯子ヲイクツトモナク上リ行キ終ニ六重ノ屋根ニ出テ露盤ノ上ニ登レバ地ヲ去ルコト十二丈許見ルモ恐ロシキ

 弘賢は忠告を聞かず、こっそりと修行中の小僧に案内させて、梯子をのりついで、6層目の屋根の上に出た(三重塔だが、屋根の間の3つの裳階も入れ、六重塔ともいわれた)が、師走の冷たい小雨が降っていて、露盤の上に立てば、12丈(約36m)の高所、地上を見降ろすのも恐ろしい。

 現存する日本の木塔で4番目に高い33.63mの東塔。10.34Mの相輪の長さを差し引くと、地上23.29mの計算になる(12丈は大げさのようだ)。

 

雲際ニ自若トシテ筆ヲ執リシハ誠二志学ノ熱心、文世界ノ大勇、誰レモカクコソアリタシ

 天武天皇の快癒を願って持統天皇が寺を創建したことを伝える銘文を一目見たいが故、足元が濡れる屋根の上、悴む手で、129字の銘文を写した弘賢を知って、三宅米吉は讃えている。銘文は「巍巍蕩蕩」だの「業傳曠劫」だの難字が多いのに。

 

 三宅がこれを書いたのは、図書頭九鬼隆一に随行し、臨時宝物取調委員一行と畿内の寺社を巡視した際の、薬師寺の報告としてだった。幕府、明治政府と違っても、同じ調査随行員として、わが身を弘賢と重ねたのだろう。

 金港堂書店で、三宅米吉とともに教科書作りを手掛けた若き日の同僚、新保磐次は米吉没後「追悼録」に「故三宅氏に関する追憶」と題した一文を寄せている。

私の最も感服した者の一例は雑誌『文』に屋代弘賢が薬師寺の塔頂に登った事を記された處だ」と。

短い一節だが文士の筆を弄したものなどとも違い、学者として感激の絶頂に達した者で、屋代氏が三宅氏だか、三宅氏が屋代氏だかわからんやうだ」と記している。

 

 欧州から帰朝し、学問への情熱あふれる29歳の時の三宅の文章を、新保は「最も感服した」一つとして挙げているのは、三宅が一番輝いていた時の思い出とつながっていたのだろう。一緒に教科書作りの事業に乗り出し、移り行く時代の流れの中、一人残ってその役を担い生涯を終えた新保の、三宅への批評にもなっていると思う。

 

 

 

 

 

清張「断碑」へのいらだち

 なんで、森本六爾について、むきになって書いているのか。自分でも考えてみた。

 

 おそらく、森本のモデル小説「断碑」を書いた松本清張によって作られたイメージにいら立ちを覚えるからだろう。

「当時の考古学者は誰も木村卓治(森本)の言うことなど相手にする者はいなかった。考古学が遺物の背後の社会生活とか階級制の存在とかいうことにまでおよぶのは論外だった。黙殺と冷笑が学会の返事であった」(断碑)

 まるで、森本が研究者の間で孤立していたかの強調は事実でない。京都帝国大学の考古学研究室を主導した浜田耕作も(熊田良作)の名で出てきて、初対面の時の森本の態度に怒ったことが描かれるが、後年独力で研究をする森本を気遣って「我々老人組は之(森本の研究活動)を助けるのが学会の義務」とまで語った人物だった。

 三宅米吉の死後、学校に所属せずに東京考古学会を組織し、「考古学」を発行した森本は、孤立したとされるが、浅田芳朗が制作した昭和6年の東京考古学会の会員名簿を見てみるとー。

後藤守一(「断碑」に佐藤卯一郎で登場するカタキ役)

梅原末治(杉山道雄の名で「断碑」に登場するカタキ役)

浜田耕作(熊田良作)

樋口清之石田幹之助金関丈夫/笠井新也/菊池山哉/清野謙次/小林行雄/三森定男/三輪善之助/直良信夫/中島利一郎/中谷治宇二郎/中山平次郎/新渡戸稲造/沼田頼輔/大場磐雄/折口信夫/斎藤忠/柴田常恵/島田貞彦/杉原壮介/辰馬悦蔵/坪井良平/和田千吉/八幡一郎/山内清男/柳田国男

 

 著名人だけでも、これだけの名がある。考古学者ばかりか、柳田国男折口信夫民俗学の大御所や、新渡戸稲造など錚々たる人物が、森本を注目し、支援していたのだった。

 

 「中学校だけの学歴の彼の一種の劣等意識からくる反発である。自分より高い教育を受けた同年輩や下のものに、彼は生涯、冷たい目を向けとおしであった」(断碑)

 こういう決めつけも極端ではないか。前にも書いたように、三宅米吉も高等教育を受けていない。独力で学習し、東京文理科大学学長になった人物だ。

 

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 むしろ戦後になって、同情を示すようにしながら、結果的に森本らの民間研究を矮小化する風潮が助長されたのではないか。

 門下の浅田芳朗が憤っているのは、昭和45年の考古学研究会の年次総会のことだ。

「新進の考古学者として令名の高いお方」が、「森本六爾論」というテーマで発表し、「「森本六爾を中心とする東京考古学会は、官学から疎外された者たちの自衛組織に他ならない」といいはなたれ」たのがショックだったと振り返る。

 森本、藤森栄一、杉原壮介という「偉大すぎるほど素晴しい業績を認めながらも敢て「官学から疎外された者たち」ときめつけられたのは、単なる官尊民卑的な思い上がり」であり「全く的をはずれた暴言」と怒っている。

 「私たちの納める税金から高い俸給を貰うばかりでなく、万端整い備わる研究施設を自由に使い、しかも役人という権力をバックに活躍される恵まれた碩学たちは、どういうわけで何かに全く恵まれない私たちを疎外されるのだろうか」と訴えている。

 

 実名は書いていないが、「令名お高い方」は、誰だろう。「森本六爾論−いわゆる東京考古学会グループの評価−  都出比呂志」と、その時の発表は残っている。

 

 三宅の後ろ盾を亡くした森本は、夫人の支えを得て、民間の研究会で大きな仕事をした。無理して私費留学もし、将来的に考古学研究に役立てるために、データベースの整備に手を付けた。弥生時代古墳時代奈良時代の墳墓の研究で成果を上げた。古墳を上空から観察する航空写真の考古学利用もいち早く提案した。門下生として、戦後活躍する考古学者を多数輩出した。

 三宅米吉が考古学者として森本に託したことは、生活苦に追われ、病魔に倒れながら、短い生涯で森本は十分果たしたのではないか。

 

 官学の学者以上の成果を上げた彼らの業績を見ないで、「差別された」学者として、同情という色眼鏡で見出したのは、戦後になってからだったのではないか。松本清張も僕には、そんな風に思えるのだ。

 

 

 

 

 

 

紫の風呂敷包を持ち運んだ六爾

 歴史学者であった三宅米吉は、大正8年から5年間、東京高等師範学校の学校挙げての騒ぎの渦中にいた。

 同年一橋大の前身、東京高等商業学校が、いち早く中橋文相の許可で大学昇格(東京商科大)が決まったためだった。蔵前にあった高等工業高校(現東工大)の学生が、これに怒り大挙して文部省に押しかけて文相をつるし上げ、昇格を口約束させる事態となった。

  取り残されたのが高等師範学校だった。一ツ橋高商だけどうして先に大学昇格させるのか、学生たちが怒り、学校一丸となっての騒ぎとなった。校長だった嘉納治五郎原敬首相に直談判に出向いたが、結果元老の山縣有朋の怒りを買い昇格運動は不当だから学校閉鎖もやむなし、と廃校になる可能性も出てきた。

 嘉納校長は三宅教授を伴い、中橋文相を訪問。三宅が事態を収める役割を担った。怒りの学生たちに、「教育者養成のための大学は必要と認める」という文相から言質をとったことを読み上げて披歴し、運動を一時休止することで最悪の事態を回避した。

 翌年責任を取らされて嘉納校長が辞職。三宅が後任を託されたのだった。昇格運動は、その後も次々障害に出くわした。大正10年原首相が高師を含む「5校昇格案」を取りまとめたが、11月に凶刃に倒れ立ち消えになった。

 大正11年は衆院通過したものの、貴族院が握りつぶして実現しなかった。このとき、温厚な三宅が「職を賭して昇格の実現を期せん」と檄を飛ばして、周囲を驚かせた。

 大正12年、加藤高明内閣に代わり、三宅の同郷の鎌田栄吉が文相就任、3月には昇格案が貴族院でも可決された。ところが9月に関東大震災が起き、大学昇格は昭和4年まで延期となったのだった。(以上、築山治三郎「三宅米吉その人と学問」(図書文化、1983年)参考)

 

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 大正15年、三宅が森本六爾を副手として採用したときは、一連の昇格運動の決着がつき、震災からも2年経った時期だった。校長としての仕事から、教授としての歴史学への切り替えの余裕が生まれていた。

 当時学生で講義を受けた築山治三郎は当時の様子を、上掲書で振り返っている。

「全く美しい白髪で優雅で温容な風格があり、教室はあたかも春風駘蕩のようであった。/普通、講義でもいつもフロックコートを着用され、森本六爾助手が持ってきた紫の風呂敷包から毛筆で書かれた原稿を見ながら講義された」

 

 森本副手もおそらく講聴したのだろう。奈良の歴史研究旅行にも森本は、三宅や学生たちに同行した。

 校長のカバン持ちが森本の仕事であったわけではもちろんない。全国にいる卒業生たちから遺跡の情報が入ると、信頼する森本を考古学調査に派遣させた。

 大正15年には、森本に長野県中野市の積石塚の調査をまとめさせ、雄山閣から「金鎧山古墳」として出版。長野市前方後円墳調査は「川柳村将軍塚の研究」(岡書院)として、昭和4年に、これも森本の著作として刊行させている。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

森本六爾の颯爽デビュー

   昭和2年の「研究評論 歴史教育」に掲載された東京高等師範教授中村久四郎と森本六爾の共著の広告を見てみると、

 中村の肩書は「東京高師教授 史料編纂官」

 森本の肩書は「東京高師歴史教室」となっている。ともに「先生」と書かれている。

 

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 三宅米吉東京高等師範校長副手という採用ながら、森本は「先生」と表記され、「東京高師」の一員として認知されたことが分かる。

 

 中村久四郎は、東洋史学を専攻し、明治40年から東京高師教授を務めていた。日本史の木代修一(当時は東京女子高等師範教官)らとともに、東京高師校長の三宅米吉の下で、歴史学研究を進めていた仲間だった。

 

 森本編輯の「考古学研究」創刊に合わせて、同じ昭和2年7月、中村久四郎、森本六爾共著「日本上代文化の考究」が出版されたわけで、森本と考古学研究会の船出を輝かしく飾ったといっていいだろう。

 この著作には、森本が副手就任後に発表された数多くの論文のうち、「日本上代の櫛と簪」(教育画報)、「前方後円墳の外形の起源に就て」(考古学雑誌)などが収められた。 

 四海書房は、北原白秋とも親しかった歌人の四海民蔵が起こした出版社で、歌集や実用物の出版が多かったが、大正から昭和に入ると、突然歴史の学術書が立て続けに発行された。昭和2年に発行された「研究評論 歴史教育」は、この中村久四郎教授が編輯にあたっていた。

 

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 同誌の奥付に、編輯兼発行者四海民蔵と明記されているのはなにか事情があったのだろうか、編輯後記には「中村究史楼学人記」とあり、究史楼は「きゅうしろう」=久四郎が実質的な編輯長だったことは間違いない。 

 昭和の初め、四海書房に東京高等師範学校から、アプローチがあったのだろうか。東京高師の中村教授が「歴史教育」、同校歴史教室の森本が「考古学研究」を四海書房から相次いで創刊し、彼らの単行本も上梓されたのを見ると、同校と出版社の深いつながりを想定せざるをえない。この一連の背後に、三宅米吉の存在があったのではないか。

    同年三宅は、東京高等師範学校長として、政府、文部省との粘り強い交渉の末、大学昇格認可を勝ち取った「東京文理科大学」の2年後の開校準備に取り掛かった。

 4年には、東京文理科大学長となり、大学でも自ら一教授として歴史教室を持つことになった。「古希」を祝う会も盛大に行われ、新しい一ページが幕を開けたのだった。歴史教室では三宅が手足のように使って来た森本の起用を当然考えていたのだろう。

 森本の輝かしい将来がそこまで見えていたのだと思う。同年11月三宅の突然の死ですべてが変わる。

 

 

 

四海書房と「考古学研究」

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 神保町のY書房で「研究評論 歴史教育」という学術誌を見つけた。昭和2年7月号と9月号で、この中に、森本六爾編輯の「考古学研究」創刊号の広告が掲載されていて、びっくりした。

 

 坪井良平宅を編輯所として立ち上げた「考古学研究」は、「四海書房」という東京・巣鴨の出版社から出版されたのだが、「研究評論 歴史研究」は、「四海書房」から前年の大正15年に創刊されており、広告が掲載されたのだった。

 

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「若き考古学者の研究発表機関」と位置付けられていたのが分かる。同時に編輯所の「考古学研究会」の会員募集も行っていた。

 考古学研究会の定め

  吾々の会を考古学研究会と称する

  吾々は年四回(一、四、七、十月)「考古学研究」を発行する。

  会員の研究は「考古学研究」を以て発表する。但しその取捨は編輯者に一任して欲しい。

  会費は年額金四円とする。半年宛(金二円)の分納を妨げない。

  入会は本会編輯所へ申込み同時に会費を発行所四海書房宛送金せられたい。

  原稿及び編輯上のことは本会編輯所宛にしていただきたい。本誌定価金一円                                                                             送料金四銭

          ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 一方、「研究評論 歴史教育」の奥付を見ると、

(発行日)毎月一回 一日発行

(定価)一冊金五拾銭郵税一銭五厘

 六冊(郵税共)前金 三円

 十二冊(郵税共)、前金五円八拾銭

 

「考古学研究」は一冊1円、「研究評論 歴史教育」は50銭と、定価が2倍違うことが分かる。おそらく部数が「歴史評論」ほど望めなかったからだろう。

 

 森本六爾が中村久四郎と共著で上梓した「日本上代文化の考究」の広告も次々頁に掲載されていた。これも四海書房の発行だった。

 

 この経緯を調べてみることにした。

 

 

六爾に託した米吉のこと

 歴史学者としての三宅米吉について、なお書いておきたいことがある。

 今から振り返ると、晩年の大きな役割は、考古学徒の森本六爾を支援して、育てようとした事だったように思う。奈良県磯城郡桜井市)で生まれ、地元で熱心に研究を進めていた若き森本は、上京をしてさらに研究を深めようと考えていた。東京帝室博物館の高橋健自を頼って上京したが、期待していた博物館の仕事に就けず困っていた時、同博物館総長兼東京高等師範学校校長の三宅米吉が手を差し伸べた。

 大正13年4月に、三宅高等師範学校校長の副手として雇用を決めたのだ。森本は、東京での研究の大きな手掛かりを得ることになった。考古学徒として森本の熱意と人物を確かめて三宅が決意したのは間違いない。

 

 三宅は、口数が少なく、人を貶しもしなかった代わりに、人を褒めもしなかったと津田敬武が回想しており、森本への評価、期待は言葉として残っていないが、行動で十分推し量ることができる。

 

 自らの副手で採用した同年、さりげなく、会社勤めの民間の考古学者坪井良平に引き合わせたのも、三宅の深い考えだったのだと思う。

 森本の年譜によると

大正13年12月 三宅博士の使いで坪井良平を訪ね、いらい終生親交を深める」(浅田芳朗「考古学の殉教者」)

  久原コンツェルンの一、久原商事の重役秘書をしていた良平は、「銅鐘」の研究者だった。

f:id:motobei:20200828141450j:plain「考古学」掲載の坪井論文

 

 長男の考古学者坪井清足が「古代追跡」で、父と森本の思い出を書いている。

 「東京では牛込の矢来町に住み、(清足が)二歳のとき、その矢来で関東大震災にあいます。数年のち、同じ牛込の弁天町に移り」「そのころから、わが家には森本六爾さんをはじめとする考古学者が大勢出入りしていたのを覚えています

  坪井宅が、旧弊になった「日本考古学会」から、新しい動きが誕生する考古学徒の梁山泊となる。

「(日本考古)学界にどうもあき足りない、という人間が集まって考古学研究会という同人組織を作った」「そこで『考古学研究』という雑誌を、森本六爾さんが一切の面倒を見て出し始めたのですが、なぜか、わが家に『考古学研究』という表札を出していました」(坪井前掲書)。

 

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 昭和2年7月1日「考古学研究」が発刊する。編輯者は森本、編輯所は「東京市牛込区弁天町七九」と坪井宅になっている。

  明治20年代の「文」以来、雑誌作りはお手の物の三宅は、すべてわかって、森本を仕向けたのだろう。メディアを持つことの意味を森本に託し、支援する人物坪井、発行所(四海書房)とお膳立てを進める。出版に関しては、三宅はロンドン仕込みなのだった。

 

 「考古学研究」創刊号で、三宅は巻頭で、東京都下で出土した騎馬模様の埴輪について書いた。祝福なのだろう。

 翌昭和3年、結婚に反対する双方の両親が欠席したミツギ夫人との結婚式では、媒酌人鳥居龍蔵夫妻とともに、森本の親代わりで、三宅が出席している。

 

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 この年、三宅は「以文会筆記抄」(雄山閣)の発行の準備をし、同4年9月に発行した。最近私は、この本の212頁に「森本六爾校正」の文字を見つけて、少しびっくりした。

 校正者名をあえて掲載したことは、校正料による支援とともに、三宅が信頼する人物として保証を与えたということだろう。

 だが、この年、三宅は逝去する。

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 森本は、後ろ盾を失いながら、「考古学研究」からさらに充実した「考古学」を発行。フランス留学も敢行したが、帰国後、昭和10年夫人が亡くなり、同11年本人も病死した。森本のまいた種は、仲間の小林行雄らが後を継いで、戦後の考古学で花が開いてゆく。

 三宅米吉は、孫娘の三千代をとりわけ可愛がったが、昭和8年に長女が生まれると森本は「三千代」と命名している。森本の三宅への思いが伝わるように思う。彼女もまた、翌年夭折している。

 

 

 

 

 

 

 

「晩夏」と2人ぼっちの寂しさ

 高校時代に友人と2人、諏訪の寺でひと夏を過ごしていたので、高原の「晩夏」のさみしさは知っている。夏休暇が終るという焦りもあるが、7月に寺に来た時の、盛夏の村の様子が明らかに変わり、刺すような日差しも鈍くなり、セミの鳴き声もおとなしくなり、あれだけ生命力にあふれていた時間が去ってしまったことに、若かった我々もたじろいでしまうのだった。

 

 先ごろ手に入れた堀辰雄の「晩夏」を初めて読んでみると、全く違ったさみしさが描かれているのだった。

 

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 再婚した妻と軽井沢で別荘暮らしを始めた堀の昭和15年晩夏の、野尻湖への2人の小旅行を描いたものだった。夏も終わり、軽井沢の別荘地から避暑客が去り、居残る堀は気が滅入らないように、旅行を思いついたのだった。

 

 湖面の向こうに妙高黒姫山を望む外国人の避暑地、国際村に夫婦で訪ねてゆく。ここでもドイツ人らの避暑客は去り、閉鎖間近の外国人向けホテルに飛び込みで夫婦は泊まった。ホテルマンは一人で、受付、料理、配膳と切り盛りし、客は、ほかにドイツ人の少女2人きり。

 

 夫妻は、少女たちと言葉を交わさず、あいさつもしない。散歩に出て、船宿で船の手配を頼もうとしたが、船は対岸に行ったきり。船宿の奥さんが話しかけてくるのを避け、逃げるように引きあげる。

 

 不必要な会話を夫婦は避け、第三者と距離をとっている。

 

 夫婦は、散歩と読書で時を過ごす。夫人は、女学生時代を思い出し、キャンプファイアの燃え残りを湖面に向かって投げるのを見て、堀は真似ようとするが結局止める。肺結核の再発を恐れる堀は、無理な運動を控えているのだった。堀は、鞄も人目のないところでは、夫人に持ってもらう位だった。

 

「Zweisamkeit」(ツヴァイザームカイト)というドイツ語の用語が出てくる。

「差し向かいの淋しさ」と堀は訳している。夫婦二人だけの「ふたりぼっちの淋しさ」。

 

 2人は旅で出会う人たちとの交流を閉ざしている。旅の楽しさを放棄しているように見える。作中に出てくる野鳥アオジのつがいのように、いつも2人きりで。

 

 1か月後には近衛内閣を支えるべく作家を含む文化人たちが結集する大政翼賛会が設立され、11月には東京・日比谷公会堂北原白秋が作詞し、信時潔が作曲した皇紀2600年を讃える「海道東征」の演奏会が開かれる。夫婦は、東京の喧騒からも、中国での戦火からも遠く離れた軽井沢での暮らしを選んでいた。

 

 この小品全編を覆っているツヴァイザームカイトで、堀はこれから続く厄介な時代に迎合することなく、なんとか乗り越えたのだった。

 

 甲鳥書林は、こんな堀を金銭的に支援している。昭和17年、川端康成「高原」(甲鳥書林)の装幀料を支払い、堀を驚かせた。昭和19年、未完だった「曠野」の堀からの印税前払いの願いに応えた。同年甲鳥書林は「養徳社」に整理統合されたが、養徳社の社長となった中市弘は、養徳社から「曠野」を出版して約束を守った。さらに、昭和20年3月に、堀からの500円の前借り依頼に応じている。

 

f:id:motobei:20200829155108j:plain 「高原」の装幀に堀の名が

 

 堀は1953年、48歳まで生き、多恵夫人は軽井沢で2010年天寿を全うした。96歳だった。